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□そして世界は夜を越す
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「おめぇはよく分からねぇな。何を遠慮する必要がある」
「……二代目…」
「器量の良さそうな娘じゃねぇか、物事の分別くらいつくだろう」
「…えぇ、きっと」
「だったらなにを、」
「…いいんです。これで、いいんです」
「……そうかい。おめぇが納得してるってんなら俺はもう何も言わねぇよ」
「ありがとうございます」
「…今夜は満月か。なぁ首無、月見酒に付き合ってくんねぇか?」
「…はい」
「美しいな」
「はい、とても」
なんて懐かしい
いつぶりだろう、久しく見ていなかった夢なのに。一度見てしまえばまるで昨日のことのように当時の出来事がよみがえる。土の匂いに風の音、月の色そして、何百年経とうとも色褪せることを知らない彼女のすべて
あれは空が灰がかった夏の八つ刻。また誰にも告げず屋敷を出た二代目を捜して俺は下町を歩いていた。捜すと言ったって、二代目は何かと目立つお人柄だったから少し歩けばおのずから何処にいるか知れることだった。ようは、町中でいちばん騒がしい場所に行けばいいのだ
この日、町でいちばん騒がしかったのは意外にも少し外れにある小さな茶屋だった。普段ならば旅の行商で賑わう大きな通りだとか人相の悪い、明らかにごろつきだらけの裏道だとかのはずなのだが。しかし事実、他のどの場よりも騒がしいのはその茶屋で、訝しげにも俺はのれんをくぐった
そしてみつけたのだ
灰色の雲がどんなに空を覆っても、掻き分けた先には変わらずに鮮やかな蒼が世界を染め上げ続けているように、どれだけ陰り荒れ果てても未だ変わらずその奥で俺の世界を染め上げ続けることとなる唯一のひとを
男勝りに騒ぎに分け入って怒鳴る彼女に思わず魅入ってしまってた俺をよそに、騒ぎの中心では二代目がなにやら隣の客ともめているらしかった。後に訊けばなんてことはない、互いによそ見をしているうちに互いの皿の団子を食べ合ってしまいどちらが先に手を出したかなどと言うのだから呆れてしまう。そんなことが原因で町でいちばん騒がしかったとは二代目に本当に困らされる
とは言え、このことが無ければ俺は彼女と知り合うどころか、もしかすると一生存在を知ることすら無かったかもしれないと考えれば強くは言えなかった。魅入るあまりにその場に立ち呆け、騒ぎの中で誰かが投げた皿が直撃して気を失ったことが二代目を通して屋敷中に広まり、しばらくの間からかいの的になったとしてもだ
それからと言うもの、俺は足しげく茶屋に通い彼女に顔を覚えてもらえただけではなく名前を呼ばれるまでになった。騒ぎの一件で彼女に顔を覚えてもらうどころか、気絶した俺を看病してくれていたのだから至極当然の流れだったのかもしれないが。けれど、どんな形であれ彼女の世界の中に俺と言う存在が居られることに舞い上がった
感情表現豊かな彼女はいつでも真っ直ぐで、素直に怒り困り涙ぐみ、だけど最後には必ず笑うのだ。そんな彼女の周りはいつも賑わっていた。彼女が笑っているだけで周囲の人間は明るくなれる。けたけたと、心底幸せそうに笑う彼女を一目見れば誰もが一緒に笑って幸せになる
そんなひとだった
だからこそ言えなかった。と言うのを、臆病なだけの自分への言い訳にするつもりはない。だけど本当に、そんなひとだったからこそ俺はこの思慕を伝えることをしなかったんだ。独占するにはその笑顔は美しすぎた。このままでいい。こうしてほんの僅かな時間だけでも彼女と世界を共有する。それだけでよかった
彼女の両親が妖怪に殺されたということを俺が知ったのは本人から聞いたわけではなく、通いつめた茶屋で知り合った常連客のひとりが教えてくれたからだ。この時代、妖怪と人間の距離は今よりも格段に近く、こういったたぐいの話も珍しいものではなかった。逆に言えば妖怪と人間が互いを認め合うこともまた然りだったのだが
しかしその話が俺に与えた衝撃は計り知れないものだった。あとにもさきにもない。自分が妖怪であることを恥じ、悔やみ、嘆いたのはこの時だけだ
殺された?妖怪に?
そのせいで彼女は天涯孤独だなんて。なんてことだろう。悲しみに追われながらも辿り着いたこの場所で懸命に生きる彼女を俺はどこまで理解した気でいたのか、己の傲慢さに恥ずかしくなる。上っ面の無い、まっさらな笑顔の本当の価値を分かっていなかった。そんな俺をよそに彼女は相も変わらずこんな俺にも笑いかけてくれていてそのことがやっぱり嬉しくて
結局、俺の世界は彼女によって染められていくばかり。俺はなにもしてやれることがないのに
彼女が町を出ると俺に告げたのは通いつめ通い慣れた茶屋ではなく、そこへ行くために通いつめ通い慣れた道端だった
俺の眼下にいる彼女に笑みは無く、満月を背にするその姿はいつも茶屋で見ていた彼女では想像がつかないくらいに弱々しく儚げで、しかしながらそれがより彼女を美しくみせた。明日には発つと言うのに最後まで俺には伝えあぐねて結局いまになってしまったのだと、彼女は目を伏せ言う
伏せたまつ毛をきらきらと煌めかせる雫。何故気づけなかったのだろう。こんなにも想いを燃やしていたのに。なんということか、彼女もまた俺に思慕を抱いてくれていた。胸に強く燃ゆる炎をくすぶらせていたのは俺だけではなかった。それでも俺のこの腕と足は影に縫い止められてるかのごとく動きはしなかった。代わりにこの美しいひとを生涯この瞳にのみ宿し続ける道を選んだ
壊すだけなら簡単にやってのけるのに。守り方を俺は知らないから。だからきっと、貴女を守れない。何度も何度も、ただ愛しいと胸で繰り返し続けたそのひとがほろりと流した雫一粒も拭えない
「首無?」
「リクオ様」
「何してるの?庭に何かあるの?」
「いえ、今夜は満月だったなと思いましてつい」
「あ、ほんとだ」
「…だからでしょうか」
「ん?なに?」
「いえ、なんでもありません。それよりリクオ様、私になにか御用だったのでしょうか?」
「あぁ、うん、つらら達が皆で花札やろうって言うから捜してたんだ」
「そうですか、いいですね。では行きましょう」
「いいの?月、見てたんじゃないの?」
「はい、でも大丈夫です。充分見ましたから」
「そう?」
「はい」
あなたに逢えてよかった
あの夜あれから彼女は暫らくの沈黙ののちに顔を上げ俺を見て言った。なにもしていない。俺は彼女になにもしてあげていない。なのにどうしてそんな言葉をくれるのか。その言葉は、彼女ではなく俺が言うべきものだ
彼女に出逢えて俺の世界は輝きを増して、いつしか彼女が俺の世界になった。彼女のすべてが好きだった。彼女を想うだけで嬉しくて、楽しくて、幸せで
あぁ、俺は、
彼女に出逢えてよかった
私もです。ただそれだけ。ひっそりと落とした言葉を拾い上げてくれた彼女が最後に俺に見せてくれたのは、俺だけの為のいつもの笑顔。月を背に、彼女はやはり美しいままだった
夜が明ければ何処か遠く、俺が名前も知らない場所で彼女は笑っているけれど
「首無が見惚れるのもわかるかも」
「はい?」
「うん、月」
「…え」
「気づいてなかった?僕、けっこう前から首無のこと見てたんだよ?」
「そう、だったんですか…」
「でもちっとも気づかないで、しかも動かないから何してるのかなって。でも月、見てたんだね」
「はい、すいません」
「えっ、いや、謝らないでいいよ!」
「ですが、リクオ様の気配にも気づけぬほど没頭してしまうなんて…」
「いいんだよそんなの。だって、なんとなく僕にもわかるかも」
「…は、」
「ねぇ首無。きっとこうゆうのを、うつくしい、って言うんだね」
何百年経とうとも変わらない
浮かぶ満月が変わらずこの世界を照らすように、あの頃と変わらずに俺の世界を染め上げるのは彼女。それが、俺が彼女の世界に居た証であり彼女が俺の世界に居た証。それだけで充分。それだけで、俺も笑っていけるから
「…えぇ、私もそう思っています」
そして世界は夜を越す
(そこでみた)(貴女はただ、美しい)
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妖怪とかそんなの美味しすぎる