念品

□虫歯にならないように
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はらはらと街灯の橙色に染まる大きめな雪が、曇った窓の外からほんのりと見える。降り止まぬ勢いにこの調子じゃあ明日も大雪だろうと溜息を付く。

カーテンを閉めるのを忘れていたわ、と凍える窓辺に近付いてシャッと勢い良く閉めた。
それは私にとって現実逃避の為の行動だったのかもしれない。
甘い匂いにくらくらとしながら、思い通りにいかないお菓子作りに愕然とする。

「ユーリのレシピ見て作っているのに、なんで…」

料理のプロである友人がくれたレシピの紙もしわしわになり男物の白いシャツといつもはジェイドが使うエプロンを所々染める同じ茶色に汚れている。チョコレートなんて溶かして固めるだけだろうに何故と頭を抱えて呻く。

「砂糖の入れすぎ?もっとカカオを足さなくちゃならないの?」

ぶつくさと呟いても返答してくれる人は部屋には誰もいない。同居人のジェイドは仕事でまだ帰っていない。予定ではジェイドが帰るまでに完璧なチョコレートを作ってあるはずだったのだが失敗続きでもう時計は彼がいつも帰宅する時間を回っていた。いつ帰ってきてもおかしくない。しんしんと止め処なく降る雪が積もって帰りが遅くなれば良いのに。

飛び散った調味料やチョコレートのアート。洗っていない調理器具。出来上がった失敗作。なによりもこの甘い甘い香りが何を作り出そうとしていたかを物語るのだろう。キッチンは、大惨事だった。しかも部屋中の匂いが混ざって酷い匂いがする。換気と掃除をあわせて彼が帰ってくる前に終わらせなければならない。間違えなくこの惨状を見られれば馬鹿にされ嫌味のオンパレードだろう。証拠隠滅せねばと一気奮起し、片付けに取り掛かった。

もとよりジーニアスにもジェイドにもあまり料理をさせてもらえない為キッチンに立つ時は片づけをするときだけ。そのおかげか随分と食器を洗ったりするのは上手いと思う。真っ白になった皿や使用前に戻った調理器具。汚れた箇所を拭取り綺麗になったキッチンを眺め、よし、と手を止めた。先ほど時計を見たときから30分は経っているが彼は帰ってこない。雪が足止めしてくれているのだろうと安堵した。いや、普通は心配したほうがいいんだろうけれど。

「でも…」

出来損ないの残骸はどう処理しようかとビニール袋につめたまま放置してある。それに鼻をすんすんと利かせると、まだ残る甘い香り。消臭剤を掛けたりしたのだがなかなか消えてはくれない。どうしたものかと頭を抱える。いっその事、不自然でなくこの香りが部屋中に広がっていてもおかしくない状態にはできないだろうか。



「あ」


古典的に掌を拳で打つ。

昨日、女生徒からもらったという早めのバレンタインのプレゼントを持ったクラトスから「女性が持っていたほうがいいだろう」と半ば無理矢理渡されたもの

早速自室に置いたそれを持ってくる。可愛らしいハート模様の包装紙をべりべりと破いて中身を見た。

「チョコレートの香りの入浴剤」


コロンと丸く、ぱっと見た目は本物のアイスチョコレートのよう。可愛らしいパッケージでご丁寧に食べられませんと書いてある。箱の外から香りを嗅いでみると食べるチョコレートとは少し違う、人工的に作られた甘い香りがした。

こんな女の子が喜びそうなプレゼントを男性でしかもあの堅物なクラトスに渡した相手の意図が読めないが、今の状況には打って付けである。

早速、と沸かしっぱなしでまだ入っていなかった浴槽のお湯の中に入れてみることにする。シャッター式のお風呂の蓋を端から転がして少し開けると冷える浴室に湯気がごうごうと立ち上りたちまち視界は真っ白くなる。湯気の暖かさに惹かれつつも入浴剤を入れた。ぼちゃんと大きな音を立ててお湯の中へ落っこちていき、しわしわと気泡を出す。仄かにお湯の色が茶色に変わっていくのをじっと見た。徐々に鼻を掠めるチョコレートに似せた香りにこれで良いだろう、と湯船から視線を反らすと目が合った曇った鏡に映った自分の姿。チョコレート塗れである。これじゃあばれてしまうな、と急いで着替えに走った。


着替えを終えた私を向かえたのは残るもうひとつの問題。手作りチョコの残骸。もう何年も共に過ごしているが未だに世間一般的なバレンタインのプレゼントというものを私は彼に渡したことがない。今年こそはと意気込んだ結果がこれだ。まぁ、14日の本番にはまだ時間があるのでビル地下で美味しいものでも買って渡そうとする。悔しいけれど。
さてはて処理に困っていたそれを、どうするか。答えは頭の中にあった。


「チョコって、お湯に溶けるわよね」




明日の掃除はきちんとするから、許して。



「ただいま帰りました……ん?」

帰宅して早々怪訝そうな声を出したジェイドはつかつかとリビングへやってくるとソファーに座り何食わぬ顔で本を読んでいる(フリをした)私に声を掛ける。

「リフィル」
「おかえりなさい」

本から顔を上げると、彼の冬の装いである黒のロングコートに雪の跡を残し、疲れて寒そうな顔をしたジェイドがにっこりと笑って「何をしていたのです?」と凄みのある声で言った。寒暖差の結露で眼鏡が曇ってきいているのに笑わないように気をつけて、返す。

「ああ、この匂いね。クラトスから貰った入浴剤よ」
「…クラトスからですか」

一瞬、彼の顔が曇ったような気がしたが気にしないで続ける。

「折角だから使ってみたのだけれど凄い香りね。気分悪くなったりしない?」
「ええ。最初は驚きましたが」
「平気なら入ってきたら?寒かったでしょう?」
「雪で交通網パニックですよ。ああ、ところで、貴女は入ったんです?」
「まだ。でも先は行ってきてもいいわよ」
「そうします」

そう言って、一度自室に戻り再びリビングを通って浴室へ入っていったジェイドを見届けて、安堵の溜息を付く。とりあえずチョコレートを作っていた事はばれなかった。よかったよかったと胸を撫で下ろした途端、浴室からジェイドが名を呼ぶ声が響いた。びくっとなった体を強張らせて、こちらへ来てくださいと言う彼の所へおずおずと顔を出す。薄々気が付いていたが、今日、機嫌悪い。

浴室へ入ると経ち篭る湯気の中半透明のお湯に浸かるジェイドが不機嫌なときに見せる笑顔を浮かべながらこちらに手招きしていた。嫌だなぁ行きたくないなぁと思っていると、ふとお湯にぷかぷか浮ぶ赤い物体に目が行く。なんだこれ、と思っているとジェイドがそれを摘み上げてこちら見せてきた。


赤い、ハート。
黄色い文字で「I LOVE YOU(ハート)」。


なるほど女の子が喜びそうだと他人事のように思っているとジェイドが思い切りよく立ち上がりぽかんとする私を持ち上げて勢いのまま浴槽へ落とした。お湯がぴしゃぴしゃと跳ね、熱がじんわりと服に浸透していく感触が気持悪い。


「な、何するの!」
「いやー手の込んだ告白ですねぇ。バレンタインに託けてこんな商品もあるんですか。彼のイメージには似つかない乙女チックな方法ですね」
「いや、そうかしら…って、ちが」

誤解を解こうと開けた口に湯船のお湯が入り顔を顰める。その瞬間、頭を押さえつけられ唇が重なった。抉じ開けるように入ってきた舌からどこか水っぽい甘味がする。チョコレートの香りが鼻をくすぐり、息苦しくなって、逃げたくても逃げられなくて、縋りたいのに手を伸ばしたら裸の胸があって、私は掌をぎゅっと握り締め、溢れるキスをただただ受け止めた。着替えたばかりだったびしょ濡れのシャツにジェイドの右手が伸びて釦を外そうとする。しかし濡れて重くなった布で、しかも男物のシャツの釦は外しにくいのか一番上の釦だけで諦めてしまう。それと一緒に唇も離れて行き、お互いの荒い息を頬や鼻で感じながらもう一度だけ触れるだけのキスをして顔を離した。

濡れた髪が顔に張り付いて、お湯の熱のためか高揚した頬も相まってとても色目いている。何よりも、細い眉を顰めた困った顔。感情を表に出しにくい彼にとっては珍しい衝動のままの行動に照れていた。これじゃあ、叱れないじゃないか。


「彼が女子生徒から貰ったバレンタインのプレゼントよ。自分は使わないからって渡されただけ」
「それは…失礼しました」
「本当よ、もう」

額にくっつく髪を払って頬に手を寄せる。馬鹿、と呟くと力なく笑った。

「寒かったんです。だから早く貴女に会いたくて急いで帰ってきました。」
「雪道危なかったのではなくて?」
「そうですよ。ひやひやしながら飛ばして帰ってきました。」
「でも貴方雪国出身よね」
「きちんと雪が降る地方にはスノータイヤと消雪パイプが万全装備してあります。貴女は心配のメールもよこさないし帰ってみれば本に夢中だし部屋はチョコレート臭いし」
「それは申し訳なかったわ…」

むしろ遅く帰って来いと祈っていた程なので罪悪感が圧し掛かる。何をしたら機嫌直してくれる?と問うとジェイドはそのまま掌を覆うように触れてくると今度はきちんと笑いながら

「このままちょっと早めのバレンタインにしましょう。どうせ、手作りチョコレートは期待できないようですし」

あら、バレてる?

「チョコレートに溺れる貴女を頂くっていうのも悪くない、むしろいいですし」

唇に手を当てて気障な台詞を言うから声を出さずに笑ってしまった。
それが気に障ったのか本人も恥ずかしかったのか、頬を抓られ痛い痛いと呻いているうちに開いているほうの手で肌に張り付くシャツの釦をもう一度外しだした。

経ち篭る湯気の熱気に溢れんばかりの甘い香り。
少々甘すぎる気もするが、まぁ、ビターだけでなくたまにはスイートもいいだろう。


「しかしやたらと濃厚な入浴剤ですね。底の方にまだトロトロとしたものが残っていましたよ」


あ、バレていなかった。



(Be careful about cavities!)

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