蜃気楼小説
□やってみようシリーズB
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線香の匂いの立ち込める中、男はスッと袈裟の裾を払って、立ち上がった。
「焼香をお願いいたします」
低く、腹に響く美声が、静まり返っていたその場の張り詰めていた糸を、ピンッと弾いた。
ほうっ…と、感嘆のため息があちこちで吐き出される。
座布団に座った30人近い人々の視線は、目の前にいる涼しげな美貌の男に釘付けだった。
袈裟という特殊な衣装を堂々と着こなす、欧米人にも劣らぬ体躯。
それに見合った190センチ近くもある長身に、主張し過ぎない物静かな眼差しが、絶妙なバランスで男を形作っていた。
一言で言えば、かなり『イイ男』である。
歳の頃も、27、8といえば、まさにオイシイ年齢。
「うちの娘の婿に!」「いやいや、うちの孫娘にぜひ!!」と、檀家達からこれでもかというくらいに見合い話がやって来る毎日。
しかし。
男はそれら全てを、丁寧な態度と断固たる決意で、きっぱりと跳ね退けていた。
あまりにもバッサバッサと断り続けているもんだから、きっと好みにはうるさいんだろうと、いつしか檀家達の間ではそう噂されるようになっていた。
実際、事実ではあったのだが…………
事実は小説より奇なり。
男―――――直江信綱が見合いを断るのには、大きな大きな理由があったのだ。
「こらぁー! 高耶ー!!」
法要を終え、ぞろぞろと帰り支度を始めた人々は、境内に響き渡ったその怒声に、ビクッと肩を震わせた。
(…………またですか)
直江一人、やれやれと肩を竦め、その怒声をやり過ごした。
しかし、その口元には小さな笑み。
「また怒られておるわい、あの坊主は」
「………国領さん」
坊主はあなたの事でしょ…とは、言わない。
自分もそうだから。
直江は、寺の奥からのそりと出て来た住職・国領に、ちらと視線を移した。
「寝ていなくていいんですか?」
「寝てばかりいては、カビが生えてしまうぞ? たまには、こうして起きてこなくてはな…」
そう言って、腰をさすりながら国領はハハハッと笑った。
この寺の住職は元々、国領がしていたのだが、よる歳には勝てず腰を患い、家族ぐるみで付き合いのある直江が、度々手伝いに来ていた。
直江自身、僧侶の免許はあるものの、実家の寺は次男が継いでおり、長男の会社を手伝っている気楽な三男坊的ポジションにいるため、こうして呼ばれればすぐに駆け付ける事が出来ていた。
「あまり無理はなさらない―――」
「何してるー! 早くこっちに来い!!」
「はい! 今すぐ!!」
国領を心配する直江の声は、再びの怒声にかき消されてしまった。
「ホッホッ…。相変わらず声の大きな男だ」
呆れ顔の国領に対するは。
「彼は元気一杯ですね」
やや嬉しそうな直江。
国領は、「おや?」と眉を潜めた。
国領から見た、直江という男。
物腰は柔らかいが、ひどくクールでなかなか表情が変わらない。
感情をおもてに出すのが苦手なのか、ワザとそうしているのか…。
長い付き合いの中で、彼が笑っているのを、ほとんど見た事がなかった。
(いい顔をするようになった…)
それが、どういうわけかこの寺に来るようになってから、直江は喜怒哀楽を見せるようになったのだ。
国領は嬉しかった。
(恋人でもできたか…。ハハッ、あんがい身を固めるのも近いかもしれんな)
長い付き合いなだけに、直江がちょいちょい美女と一緒にいるのを見たり聞いたりしていた国領は、彼がそつなく女性との交際をこなしているのを知っており、「こんな顔をするようになったんだ、結婚も間近かもしれん」と、考えていた。
(仲人をするまでには、この腰を治さねばな)
―――――――それが、ひどい思い違いである事を国領が知るのは、そう遠くない未来であった。
「道具もって来い!」
「はい、棟梁!」
威勢のよい声に、ハッと現実に戻らされた国領は、いつの間にか直江がいなくなっている事に気付いた。
「………………信綱?」