宝物部屋(戴き物小説)

□鮮やかな響き
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 岬と一緒にドイツにいた時間を数えてみると、総数では未だに一ヶ月を切るだろう。
けれど、その短期間でめまぐるしい変化があった。
 岬のドイツ語の習得が異様に早かった事?いや、違う。
 何故か俺の料理のレパートリーが増えた事か?少し違うな。
 友達が最愛の人になった……そう、これだ。

 一番最初、岬が突然俺を訪ねてきてくれた時に渡した殴り書きの住所のメモを頼りに、岬は再び俺の前に現れた。
「国境を越えて友達の家に遊びに行くって、何か小さな冒険みたいで楽しいんだ」
 迎え入れた玄関先で岬は微笑みながら言う。俺からしたらそんな口実なんていらないくらい、嬉しかったのに。
 そんな岬にとっての小旅行は幾度か続いた。本当に小旅行もしていたらしく、今日はブレーメン駅周辺に行ってきたよ、とか聖ニコライ教会のミサに行ってきたんだとかをさらっと言う。最終目的地が俺の家なのは嬉しいが、近場なら誘ってほしい。
 二人で他愛ないお喋り(勿論、大半がサッカーの話だ!)を延々として、大抵岬は泊まっていったが、翌日には必ず帰ってしまうのだ。もう一日くらいどうだ、と言ったことはなかった。
 去ってゆく背中を見送る頭の中では、うろ覚えの流行歌が流れる。
“day tripper,day tripper yeah……”
 どうか、そうはならないように!滅多に信じない神様に祈りたくなるぜ。

 岬の訪問が増える度に、自分の内で岬が特別になってゆく。外国での生活の中、流石の俺でも気疲れや心細く感じる事もある。そんな時に気を許せる存在になった岬に、友人以上に心を寄せたいと願い始めた。

 生成り色の革を張ったソファに座る岬は、珈琲を片手にドイツ語の簡単なテキストを熱心に読んでいる。岬の集中力がとても良いのを知っているので、とりあえず隣を確保したところで俺は手持ち無沙汰だ。
 岬は昨日来たので、いつも通りに今日帰ってしまうのだろう。そう考え、胸にチクリとした痛みを感じた。
 気を紛らわせようとラジオのスイッチを入れてみる。
“……Sah ein Knab ein Roslein stehn Roslein auf der Heiden,”
「若林くん」
 ラジオから流れるソプラノに暫し聞き入っていた俺は、岬の呼びかけに半拍置いて気づいた。
「問題を出してよ」
 そう言い、手にしていたテキストを俺に渡す。見開いたページには体の部位の単語が載っていた。
「いいぜ。じゃあ、ここは?」
 トントン、と自分の腕を指でつつく。
「Arm,英語に似てるよね」
「まあ、元をたどれば大体一緒みたいだからな。次は……」
 岬は全て正確に答えていった。流石の優秀っぷりだ。日常会話も臆する事なく片言ながらも喋ろうとしている。その姿勢もとても好ましく感じた。
 最後の問題を出す。
「じゃ、ここは?」
 顔のパーツ、唇を指差す。その時、岬の視線がふと泳いだ。ついで瞬きをする。珍しい、わからないのかと思ったがそんなはずはなかった。
「Lippe……終わりかな、じゃあ僕から問題。これは?」
 唇と唇が触れる。いや、掠めるというくらいだったかもしれない。
 頭が真っ白になり、次に心音が聞こえだした。
 Kuss、頭の中で答えは出たが音にならない。岬は真っ赤ながらも真面目な顔をしている。
「僕……君に嫌われるかもしれないけど言うよ、僕、若林くんのこと……」

 Ich liebe dich,ラジオからはグリーグの歌曲が流れる。俺は歓喜のあまり岬の肩を抱いた。唇が岬の額の辺りに触れて、柔らかな髪の匂いがする。
 今日こそは、もう一日いてくれないかと尋ねてみることにしよう。



Du mein Sein und Werden
(御身、私の現在そして未来よ)
Du meines Herzens erste Seligkeht
(御身、私の心の最初の至福よ)
Ich liebe dich,
(私は御身を愛す)
Ich liebe dich in Zeit und Ewigkeit
(この世の時の中で、そして永遠に……)



おわり
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