バザール(企画、リクエスト等)

□記憶のかけら
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「悪いが、サインなら後にしてくれないか?」
嬉しそうに、だが少し心配そうに近付いてきた少年が、凍り付いたように立ち止まる。
一昨日入院してから、子供に見つかるたびにサイン攻撃を受けたので、先に断ってみたが、失敗したと思った。
驚きのあまり、泣きだしそうな顔。
「あ、いや。」
一歩踏み出すと、一歩逃げられた。
「他の人に内緒にしてくれるなら、書いても」
言い終わらないうちに、逃げ出してしまった。
軽く溜息。
少年といっても、俺より少し下くらい。
全く、有名になるのも、いろいろ大変だ。おちおち交通事故で入院などもしてられない。
頭の包帯に手をやる。
ひどい事故だったと聞いたが、外傷がこれだけですんだのは、不幸中の幸いだった。あとは擦り傷程度。
検査をして異常がなければ、すぐにでも退院できるだろう。
「何だよ、元気そうだな。ワカバヤシ。」
聞き慣れた声に振り返る。
「よお。悪いな、わざわざ。」
「せっかく見舞いに来てやったのに。もっと怪我人らしくしてろ。」
「生憎、元気なんだよ。」
チームメイトの見舞いは何より嬉しい。軽口を叩きながら、すぐにでも退院したいと思った。



病院に運ばれた一昼夜、若林くんは意識不明の重体だった。
頭部の強打。
全て僕の所為だ。
意識が戻るまでの間、どれだけ彼の無事を祈ったことだろう。
若林くんがもう一度目覚めてくれるなら、他には本当に何もいらないと思った。
その思いに嘘はない。
だから、嬉しい。
本当に嬉しいんだ。
仲間達と笑いあう姿を遠くから眺める。
喜びを噛み締める。涙が音もなく零れ落ちた。



「ミサキ」
振り返るとシュナイダーがいた。
「あいつ全然怪我人に見えないぞ。普段通りだ。」
「…そうだね。」
微笑んだら、また涙が零れた。
「ミサキ?」
「うん、ごめん。大丈夫。」
シュナイダーが僕の頭の上に手を置く。
「とりあえず、俺の家に泊りに来い。」
僕は何度か瞬きした。
「………え?」
相変わらず、シュナイダーの会話は唐突過ぎて意味がよくわからない。
「暇だろ?」
「………あ、うん。」
明らかにいろんな言葉が足らないけれど、僕を心配してくれてるのは、かろうじてわかった。
そんなに弱って見えるのだろうか。
僕は、シュナイダーに強引に連れられるようにして、病院を後にした。



あれ、あいつ、先刻の?
「…俺のファンじゃなかったのか?」
微かに一人ごちて、シュナイダーと少年が病院から出ていくのを、俺は眺めた。
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