宝物部屋(戴き物小説)2

□続殿様白浪
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 殿様白浪が消えて一月が経とうとしていた。白浪探索を特に命じられていた松山と岬は、元の役目に戻っていた。特に大きな事件がない時は、日向の親分の煮売り屋や本郷の店に顔を出し、食事をして、という日常に変わりはない。
 ただ、以前と少し違っているのは、本郷の店の常連と話すようになったことである。
「岬、こっちに座れよ」
座敷から手招きする若林に、松山と岬は顔を見合わせた。
 この店では源さん、と呼ばれる若林は若いながら、陸奥磐内藩五十万石の藩主である。近くに上屋敷のある雄藩の当主でありながら、外歩きが止まらず、つい先頃までは殿様白浪として、驕る大名や旗本に誅罰を加えていた。
 しかし、その正体が奉行所の知るところとなり、また北町奉行所の同心岬に説得されたこともあって、今ではすっかり足を洗っている。
「良いよ、僕はまたすぐに行かないといけないから」
岬は若林の誘いを軽くかわすと、戸口近くの席に座った。松山がそれに続く。毎日のようにこのやりとりを目にしている松山としては、若林に睨み付けられるのも、睨み返すのも日常と化していた。
 実は本当に殿様だというこの男が殿様白浪と何か関係あるのは間違いなかった。ただ、事情を知るらしい奉行の三杉も、岬も何も言おうとしない以上、松山としても尋ねることはできなかった。あの時刀を交えた小次郎が、力では敵わなかった、と漏らしたのを聞いた。確かに、あの時の男だった。松山は飯を頬張りながらも、常に刀から意識を離さない。

 二人は昼飯を済ませると、すぐに店を出た。その後ろ姿に若林が視線を走らせる。かわら版屋の話によると、またあの志水がうろついているらしい。
「殿様がおとなしくなったせいで、かわら版の売れ行きがねえ」
累代の江戸詰め藩士の家柄でありながら、家を捨てて戯作者を目指す反町はもっぱらかわら版書きを生業としていた。殿様白浪のあだ名をつけたのもこの男であったが、一方で市中から広く集められた情報は若林も重宝するところであった。
「まあ、そう言うな。また昔の話でも聞かせてやろうか」
好色もの、が受けるのは元禄の昔から。有り余る資力と粋で女遊びを数こなしてきた殿様の経験談は、恰好の戯作の材料であった。最近は何故かそちらもおとなしいと噂の殿様である。
「ええ、是非とも。今は取り締まりが厳しくなっているんで、こっちもおとなしくしてますけどね。殿様こそあんまり浅草餅ばっかり食ってると顎で蝿追う羽目になるって言われていましたよ。近頃は控えておられると聞き、安心しましたけどね。それよりも」
手鎖を暗示させるように、反町は手を揃えた。そして、耳打ちしたのが例の志水がうろついているという話だった。
「あいつは吉原でも葭町でもたいそう評判が悪いですよ」
男女の比率が大きく違うこの江戸の町。武家社会は男だらけで、吉原のように遊女を置く場所も必要悪として公の管理するところとなる程で、自然に男もそういう対象になる。葭町といえば、江戸の陰間茶屋の場所であった。
「なるほど、女郎にも野郎にも嫌がられるとはひどいもんだな」
若林の言葉に反町も乗じる。
「ええ。気にいったと言ってはいたぶり、気に食わないと言ってはいたぶる、らしいです」
酷薄を絵に描いたような三白眼を思い出し、若林は顔をしかめた。そして、その志水が何を狙うかを思い、ため息を重ねる。
「何でも、可愛さ余って憎さ百倍とやらで、煮え湯を飲まされた男と女と、追いかけていると聞きましたよ」
反町の言葉に、若林は立ち上がった。あの志水だけは、殿様白浪であった内に何とかしたいと思っていたが、こうなった以上は仕方がない。しかも追われている男、に心当たりがある。
「最後の大仕事だ。版木残しておけよ」

「松山くん、岬くん」
北町奉行武蔵守三杉は二人並んだ同心を順に見た。若くして代替わりした二人だが、同じく若い奉行の腹心として、日々成長しつつある。
「昨日の捕り物はご苦労だったね」
「はい。一刻も早く白状させます」
松山と岬は薬種問屋に忍び込んだ盗賊一味を捕らえたばかりだった。相変わらず冴え渡る剣の腕前を、他の与力や同心達も認め始め、荒事を任されることが増えてきている。
「奉行、近頃、旗本の子息たちが徒党を組んで暴れているらしいですが、そちらはよろしいのですか」
「ああ、あの愚息達だね」
勘定を踏み倒す、店の中で暴れる、娘にちょっかいをかける。
「今のところは問題ない。それより」
三杉は声を落とした。
「志水の謹慎が解けたそうだよ。二人のことだから、大事ないとは思うけれど、くれぐれも気をつけたまえ」
志水、の名に松山と岬が表情を引き締める。本郷の店で酌を拒んだ時の志水の言葉を岬は忘れてはいない。
「侍なんかには勿体無い面じゃないか。色子にでもなったらどうだ」
いくら年若いとはいえ、一人前の侍に投げかける言葉ではない。掴まれた腕を引き、立ち上がりざまに振り払った。
「何を小癪な」
なお挑みかかろうとする志水に、店の主がたしなめた。昔はたいそうな武芸者だったという主は目を患って以来、つつましく暮らしてはいるものの、翼の最初の師匠でもあり、義侠心自体は失ってはいなかった。
「お客様」
声をかけた主を志水が突き飛ばした瞬間、店の中を荒らすことを戸惑っていた岬も、志水を再度地に這わせ、奉行に突き出したのであった。
「覚えていろよ。次会ったときは」
その後の台詞は聞かなかった。しかし、予想はできた。
「岬、俺がきっと守ってやるから」
気遣う松山に、岬は平静を装って頷く。松山はいつものように岬の身を案じていたが、岬は殿様白浪こと若林に迫られた時のことを思い出していた。子供の頃から一緒にいた松山や小次郎、気心が知れた翼や健。そういう友とは全く違う。自分に邪心を持つ相手と馴れ合う気など全くなかった。それなのに。何故これほど気になるのか。気づくと、あの時のことを考えている。若林の憤りもよく分かる。だが、同心である岬の立場から政道の批判をすることは許されない。それよりは、少しでも良い世間にすること。そのために自分がいるのだと岬は思っていた。自分とは相容れない正義。それなのに、潔くやめると言い切った。
 そして、自分は三回も唇を盗まれながら、見逃した。
「松山、大丈夫だよ。それより、例の小町娘の件、もう少し当たってみようよ」
青葉屋の一人娘の弥生が、数日前から姿を消しているという噂が飛び交っていた。青葉屋の紋が桔梗であるため、桔梗屋の弥生という錦絵にも描かれた小町娘が店にも顔を出さず、姿を見せない日が続き、噂は広まりつつあった。
「ああ、そうだな。かわら版屋に行ってみるか」
昨日、その噂を記したかわら版を見たばかりだ。日向屋で日向の親分こと小次郎と話している時にそのかわら版を見せられた。小次郎の子分、健がそのかわら版屋を知っているというので、場所を教わったばかりだった。
「それなら、健について来てもらおうぜ。あいつの迫力なら、誰だってすぐ口を割るだろ」
「健に言いつけるよ、松山」
戯れ合いながら、松山は岬を顧みた。岬は変わった。
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