宝物部屋(戴き物小説)2

□苦いプリン
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「先生、やっぱり、僕」
「じっとしてろって」

 三時間目の国語の時間に、岬が倒れた。ちょうど、作文の授業だったので、そのまま続けるように指示した担任の若林は、岬を抱き上げて保健室に向かった。
「大丈夫か?」
こんなに間近で見るのは久しぶりだった。担任とはいえ、サッカー部の練習のある時くらいしか、近づくこともない。抱き上げた岬は本当に軽く、顔色も真っ青だった。
「先生、迷惑かけてごめんなさい」
謝りながらも辛いのだろう、身体を寄せる岬があまりに可愛くて、若林は急いで保健室に入った。保健室のゆかり先生はあいにく不在で、若林は岬をベッドに寝かせた。
「どうしたんだ、訳を教えてくれ」
日曜日の練習を珍しく休んだと思ったら、今週に入ってからは毎日顔色が悪い。何度も尋ねてはいるものの、岬は大丈夫の一点張りだった。
「あんまりだったら、親父さんに連絡を取るぞ」
頑固な岬に、有効な手は一つしかなかった。帰って来ない父親に連絡を取るには、色々なツテを辿らざるを得ない。そうなると、父親の評判に差し障る。
「…父さんが帰って来なくてお金がないんです」
起き上がろうとする岬を、ベッド脇に座った若林は肩を押さえて止めた。
 仕方なく寝たまま話した岬によると、いつもはお金を置いていく岬の父親が、お金がなくなる頃になっても帰って来ない、という。それで、給食費だけは何とか払ったものの、食料も何もない状態で、給食だけが唯一の食事になっていた。
「そんなことはもっと早く言え。給食は運んでやるから、寝てろよ」

 放課後になって、迎えに来た若林先生に、岬は不思議そうな顔をした。
「大丈夫、一人で帰れますから」
大丈夫、な訳もない。戻って来たゆかり先生の許可が下りず、帰らせてもらえなかった岬である。
「本当は保護者に連絡して迎えに来てもらうところなんですけどね」
「俺が送るから、任せとけ」
放課後とはいえ、少しは生徒も残っている。授業中とは違い、人目のある中を抱き上げられるのも岬が嫌がるだろうと思って、若林は岬を背負った。
「先生、僕一人で帰れます」
「ここでお前を一人で帰したら、俺がゆかり先生に怒られると思わないか?」
若林先生の言葉に、岬はおとなしく従った。まだ頭を上げていたら辛いのか、背中に体重を預ける気配がして、若林は少し安心する。
 職員室の横を通り、校門横の駐車場で、若林は黒いセダンの車に近づいた。小学校の駐車場では一般的でないサイズの車をはばかって、他の車が遠慮がちに駐車スペースを空けている状態にも、ぼんやりとしている岬は気づかない。
「ほら、乗って」
岬を助手席に乗せると、若林は車のエンジンをかけた。

「岬、米はここに置いておくな。あと、野菜も冷蔵庫に」
「先生、父さんが帰って来たら、お金は返します。冷蔵庫には僕が」
横になっていれば良いものを、起き上がろうとする岬を、若林先生は再度寝かしつけた。家に着くなり、確かに体温が上がったような気がする。抱き上げた時に、触れた手が熱いのが気になって、手を当てた額は痛いくらいに熱い。
 抵抗力が落ちているから、風邪気味らしい、喉も赤くて、夜になると熱が出るかもしれないと、ゆかり先生に釘を刺されていたことを思い出す。
「分かったから、とりあえず休め」
言い聞かせて、岬を横にさせてから、若林はスーパーで買い物を済ませて来た。米に肉に野菜。気を遣う岬に、若林は手を振る。
「腹減ったから、晩飯にしような」
出された親子丼はまだ湯気が立っている。ただ器が揃っていない辺りが、家人の揃わない岬家らしい。
「わあ、おいしそうですね」
「たくさん作ったから明日も食えるぞ」
清潔な台所は、狭いながらも整頓されていて、どこに何があるのかすぐに分かった。岬の眠っている内に調理を終えた自分の手際を誇りながら、若林は岬の分よりも一回り大きい器に入った自分の分をテーブルに運ぶ。
 岬は若林が座るのを確認してから、目を見ていただきます、を言った。こういう岬の仕草の一つ一つを、若林は可愛いと思い、気に入って、もっと見たくなる。それはまるで無限の循環のようだった。
「美味しい。卵がふわふわですね」
「そう。とろとろでふわふわにするのにはコツがあって」
一人の食事が味気ないのはよく分かっている。栄養があって、消化に良いことも大事だが、温かい食事を誰かと食べる方が今の岬には必要な気がした。本当は食べさせてやりたい気持ちをぐっとこらえて、若林は岬に視線を向ける。口を開けてご飯をねだる岬を想像しかけるのも自制する。食欲もあるようだから、一晩寝たら回復しそうだ。
「岬、お代わりは?」
若林の言葉に、岬は控えめに首を振る。そんなに急には食べられない。お腹も満足したが、それ以上に胸がいっぱいだった。
「じゃあ食い終わったら、薬を飲んで、風呂に入って…」
岬に言いかけて、若林は周囲を見渡した。台所と手洗のあるだけの六畳一間の部屋には、風呂があるとは思えなかった。
「岬、風呂は?」
若林は尋ねた。もう熱が上がりかけている以上、温まってから、ぐっすり寝た方が良さそうだった。岬はスプーンを動かしながら、いつもよりは少しぼんやりした目を開け、顔を覗き込んでいる若林を見た。
「いつも石崎くん家に行ってるんですけど…最近は台所の流しで」
同じクラスの石崎の家は石之湯という銭湯で、岬はよく通っていた。いわゆる町の銭湯なので、厄介な客もおらず、番台の石崎母も気を配ってくれて、安心して通えるためだ。
 若林は台所の流しを見た。いくら小柄な岬でも入るのは無理だろう小さな流しに、どう使っていたのかも想像できず、それは風邪も引くだろうと、若林は立ち上がった。
「食べ終わったら、身体拭いてやる」
洗面器を取り出した若林に、岬は首を振った。確かに、今日は保健室のベッドにいた時間が長かったので、汗もかいた。
「良いです。僕、自分でできますから」
岬は顔を赤くして、だるい身体の向きを変えた。蛍光灯に照らされた室内で、部屋が狭い分、若林の影が大きい。独りではないことを強く感じて、岬は戸惑わずにはいられない。どうして、ここまでしてくれるのか。親に不在くらいで眠れないほど、弱い僕に。
「たまには大人に甘えて良いんだぞ。お前はまだ子供なんだから」
若林の言葉を、岬はそむけたままの背で聞いた。大人はみんなそう言った。でも、甘える先などなかったし、岬は自分のことは自分でするようにしてきた。
 若林先生は甘えろ、などとは言わなかった。その前に、いつのまにか甘やかしてくれる気遣いが嬉しくて、いつのまにか甘えることを覚えさせられていた。
「…歯磨きしてきます」
わがままを装って、自分を甘やかそうとする若林のいつもの手口にも馴らされた。
 それでも、こればっかりはと岬はため息をつく。いくら男同士でも恥ずかしいし、そこまでも子供ではない。
「あっ」
熱が上がってきたせいか、足元のおぼつかない岬を抱き止めると、若林は歯ブラシを取った。
「ほら、俺が支えておくから」
風呂場兼洗面所の流しで歯を磨く岬の肩を、若林は後ろから支えた。力を入れれば折れてしまいそうな、細く小さな肩は熱くて、頼りない。
「熱、上がってきたんじゃないか?」
心細そうに振り返った岬を抱き上げて、布団に寝かせた。
「岬、着替える時に、身体拭くから」
若林の勧めるままに、岬はだるさの増してきた身体を伸ばして服を脱いだ。年齢にしては小柄な身体は真っ白で、見るからに触り心地が良さそうだった。たとえ子供でも、男の肌に触りたいと思ったのは初めてで、若林は思わず息を飲んだ。
「じゃあ、拭くから」
洗面器に湯を注ぎ、タオルを濡らした若林に、岬が少し眉根を寄せた。
「先生、やっぱり、僕」
「じっとしてろって」
細い手首を掴んで、額から頬にかけてを拭った。湯とはいえ、熱が一瞬引くせいか、岬はうつろな目のまま、少し気持ち良さそうな顔で若林を見た。潤んだ瞳に、長いまつげが影を落とし、切なそうな表情にも映る。
「はあ…」
首筋、胸元と若林はできるだけ事務的に作業を終わらせることに決めた。まだ子供のような甘い匂いや、唇からこぼれる甘ったるい息に気を取られないようにしなければ、耐えられそうになかった。何に?考えてはいけない。
「わかばやしせんせ」
吐息交じりで、更につやっぽく聞こえる声に、若林は身を固くした。決して悪い心が全くなかった訳ではない。後ろめたい気持ちで見ると、顔を赤くした岬と目が合った。
「くすぐったいんで、後は僕自分でやります」
妙に力が入って、息が荒いと思えば。赤くもなるはずだ。
「じゃあ、背中だけ拭くから。後は自分で」
若林はその場に座ると、岬を膝に乗せた。左腕に岬の上半身をもたれさせて、顕わになった背中を拭く。あまりに無防備な背中の白さが目について、若林は岬を支える左腕に力を込める。理性を捨てて、獣になるのは簡単だが、どんな形であっても、岬を泣かせたくはなかった。
 初めてこの部屋で一緒に弁当を食べた。大好き、と微笑まれた時、胸に思い衝撃を受けたのを覚えている。五年前の自分なら笑い飛ばすような、甘い感情がずっと心の中にあって、その中に岬がいる。
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