宝物部屋(戴き物小説)2

□甘い玉子焼き
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「岬、家庭訪問のことだけど」
担任の若林に職員室に呼ばれた岬は、困った顔で首を振った。小学五年のクラス替えで、サッカー部の顧問でもある若林先生のクラスになったのは良いが、こんなに追及が厳しいとは思わなかった。
「すみません、父さんがいつ戻るか分からないんです」
今までの担任は最後には折れてくれた。画家の父親と二人きりで、親切な大家が時々息子の面倒を見てくれるのを幸いに父親が家を空けることも多いという岬の家の事情は広く知られていたし、三年四年次の担任などは、毎年大家さんに会って帰っていた。
 物分かりが良いといえば聞こえは良いが、一方で深く関わるのも嫌だったに違いない、と若林は疑っている。わざわざ寝た子を起こすこともない。岬は学校では手のかからない、良い生徒だった。
「じゃあ、お父さんが帰って来た時に学校に寄ってもらうことにして、家にだけは伺う、いいな」
「ええ?どうしてですか?」
自分のことであまり教師の手を煩わせたくない岬の問いに、若林は家庭訪問のプリントを取り出した。
「家庭訪問の目的は保護者と話し合うと共に、家庭生活の様子を見る、だからな。お前の部屋も見ておかないと。他のみんなももれなく部屋は見せてもらってるんだぞ」
それじゃあ、翼くんのあの部屋も見ちゃうんだ。つい笑みを漏らした岬に、若林は安心したかのように声をかけた。
「岬、希望の時間はあるか?」
「ありません。いつでも良いです」
家庭訪問週間は午前中授業でクラブも休みになる。放課後に買い物に行って、夕食を作って晩御飯。いつでも変わりはない。
「じゃあ、金曜日の最終に。特別に宿題も教えてやるぞ」
そんな必要もないくらい、岬はよくできる。それでも、若林先生の気遣いが嬉しくて、少し恥ずかしくて、岬は微笑みながら職員室を後にした。

 その日の予定は全部で8軒。岬の家に着いた頃には、5時になっていた。周囲の家からは夕食の支度の音がしている。まちまちの匂いの漂う中、若林はかえで荘に着いた。鉄の階段を上った二階の部屋。
「岬」
ドアを叩くと、小さな足音がした。鍵を開ける音に続き、小さな姿が現れる。
「先生、こんにちは」
普段は施錠しているらしい。それが正解だと、目の前の岬を見て若林は思った。男の子といっても、これだけ可愛ければ用心するに越したことはない。
 南葛小では四年からクラブに入れる。若林が顧問を務めるサッカー部に岬が入って来たのが、去年。少女のような優しい外見とは裏腹に、サッカーはうまくて、コンビを組む翼とともに、すぐにレギュラーになった。
 今年、担任する生徒を選ぶ時、若林が最初に選んだのは岬だった。決して目立つ訳ではない。整っている容姿は、清楚と表現される類のもので、性格も穏やかで、教師を困らせるようなこともない。優等生、といえた。
 それでも、大人の目から見る岬は、微笑んではいるものの、どこか常に淋しそうで、ならない。
 去年のサッカー部の練習試合、レギュラーの岬は午前中の試合が終わるとこそこそと隠れてしまった。心配した若林が探しに行くと、岬はグラウンドの隅で弁当を食べていたのだった。
「まだ、あまり上手に焼けなくて」
海苔でサッカーボールを描いてもらった翼だけではない。他の子供たちのお弁当があまりに華やかで気が引けたのか、岬はほんの少し形の崩れた玉子焼きを隠そうとした。
「でも、うまいぞ」
隠す前に一口で食べてしまった若林に、岬は小さく笑い声を立てた。案外、無邪気な声だと思った時から、若林は岬から目が離せなくなった。
「お邪魔します。遅くなってすまなかったな」
靴を脱いで、上がりこんだ。何もない殺風景な部屋に、テーブルと、みかんの木箱。
「それ、僕の机なんです」
不審そうに木箱を見ていたのを察して、岬が言及した。家財道具がないとはいっても、部屋は清潔そうだ。
「きれいに掃除してあるな、えらいな、岬」
若林の言葉に、岬は少しはにかむと、さっと立ち上がる。
「先生、お茶入れますね」
座布団を出し、お茶を入れてくれて、とくるくる動き回る岬を微笑ましく眺めながら、若林は鞄を開けた。
「じゃあ、俺もちょっと失礼して」
若林は鞄の中から、大きなお重を取り出した。
「先生腹減ったから、飯食うけど、岬はどうだ?」
自分が帰ったら食事の支度をするに違いない。そう思っていた。だから、それより前に、家に寄って、作らせておいた弁当を持って来た。
「でも…」
躊躇う岬に、若林は箸を押し付ける。
「弁当分けてやるから、他の先生には黙っててくれよ」
このために、他の家で出された物はすべて断った。長身で二枚目の若林には、その他の誘惑も多いのだが、早く駆け付けてやりたかった。
「もう、先生はしょうがないな」
岬は笑顔で頂きます、と言った。走って来たから、まだご飯も温かい。
「美味しいか?」
尋ねた若林に、俯いたままの岬が首だけで頷く。そして、顔を上げた岬は涙ぐんでいた。
「僕、こんなに甘い玉子焼初めて」
前に岬から奪った玉子焼は少し甘かった。だから、甘いのを頼んでいたのだが。若林が試しに一つ口に入れてみたら、確かに甘くはないが、それほどではない。
「僕のために用意してくれたんだね」
涙ながらに向けられた笑顔の方が、とろけそうに甘いと思った。
「ああ、そうだぞ。だからたくさん食べろよ」
何故、こんなに気になるのか分からない。一応、衣食住には問題ないし、片親もいる。虐待を受けている訳でもない。もっと可哀相な子供はたくさんいる。それでも、こんな気持ちになったことはなかった。じっとしていられない位、何かをしてやりたい衝動。
「ありがとう、若林先生。…大好き」
そうやって笑顔になってくれるだけで良い。思っていたのに。まだ少し潤んだままの瞳で付け加えられた言葉に、若林は愕然と岬を見返した。
 動悸が激しさを増す。相手はいくら可愛いといっても、教え子で小学生で男の子。それがこんな台詞一つで、天にも舞い上がる心地になるなんて。
「岬、先生も大好きだぜ」
大人としての理性でかろうじて口にした若林であった。



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