小説:Bigeastation編31~
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「チャンミン…」
冷えた廊下を音もなく抜けてリビングに戻ると、振り返った彼に震える声で名前を呼ばれた。
ゆっくりそこへ歩み寄って、となりに座る。
泣きやんで膨れた瞼を目にし、改めて罪悪感に心が軋む。
焦らないこと、焦らせないこと。
彼が伝えたいと思うまで待つこと。
緩やかな動作で足を組み、できる限り普段どおりの声を出せますように、と願った。
「落ちつきましたか?まぁ、ミルクでも飲んで。冷めますよ」
そう言いながら自分のカップを手に取って、二口ぶん口に含んだ。
彼のぶんも手渡そうとして伸ばした手に、そっとちいさな手が重なる。
「ん?いらないですか?」
「………った…じゃ、ない……」
「…はい?」
瞳の半分が波打って、また涙が溢れそうになってる。
暖房も入ってるんだから、飲まないと干からびますよ?
「いやがったんじゃないから。チャンミンのこと拒絶するとか、絶対ないから。だから…」
マイクを持つためにある彼の細い指先が、ぼくの無骨な手を包んで強く握りしめる。
励ますようにこちらからも指を絡めると、伏せられた睫毛から雫を払って、ジュンスは目映くまっすぐにぼくをみつめた。
「うん。だから?」
「だから…キス、して。チャンミン」
ピキン、と割れるような音を立てて、生まれる頭痛。
この人は、自分がどんなに誘惑的か、そろそろ自覚するべきだ。
せめて言葉にする前に時間とか状況とか考えてほしい。
じゃないとたぶんぼくはそのうちおかしくなってしまう。
こうしているだけでも、気が狂わないのが不思議なくらい、そそられてるのに。
どこかぎこちなく手を繋いだまま、閉じられたその震える瞼をみつめ、暖かい額の上に優しく口づけた。
「…あ…」
そのまま離れるぼくを引き留めて、潤んだ瞳で睨みつけてくるジュンス。
「ちが…、やだ。こんなんじゃ…」
「ヒョン、ぼくを殺す気ですか?これ以上誘惑しないでください、話どころじゃなくなる」
結構本気なその命乞いの言葉に、彼はふと我に返って頬を火照らせ、恥じらいに目を伏せる。
ぼくはその膝の上でまるまったタオルを手に取って、再び濡れはじめた滑らかな肌をポンポンと拭った。
「何か引っ掛かってるんでしょう。この前の、ラジオのこと?じゃなくてもっと別なこと?」
纏まりのない言動でぼくを振りまわそうとする彼に、柔らかく問いかける。
負担にならないように、追いつめてしまわないように、できるだけ穏やかに。
彼は俯いたまま、ふるふるとちいさく首を振ってこたえた。
「わか…わかんない。ぼく…あのとき…」
「うん。ほら、もう泣かないで」
途切れ途切れに話し出そうとする彼を一旦窘めて、顔じゅうの涙を柔軟剤の香る吸水性の高い綿に吸い取らせる。
あのとき。
やっぱり、あの収録からなのだろうか。
ユチョンの言葉、もっと掘り下げておくんだったな。
その日のうちに話し合えたら、笑い話にできてたかもしれないのに。
「責めてるわけじゃないんですよ。ただまぁ情けないことに、心当たりがないというか…正直、あんまり覚えてないというか。何か心ないことを言ったなら、ちゃんと謝りたいんです」
ゆっくり話しかけるぼくを見上げる、涙のなかでも淀みなく輝く瞳。
愛しくて不意に頬を緩ませると、彼は安心したようにぼくの肩に凭れかかって、話しはじめた。
「ううん…なんにもチャンミンのせいじゃないから。ぼくが…ホント、つまらないことなんだけど、あのときチャンミンが言ったこと、ずっと気にしてて…」
布越しの仄かな体温とか、肌に息が当たるときの擽ったさとか…
伝わってくる彼のすべてが、ひどく心地いい。
ぼくに必要だったのはこれだったのかも。
理由とか説明とか、そういうまどろっこしいものじゃなくて。
彼に思われているということ、ぼくに信頼を見せてくれること、たったそれだけ。
こうなってはじめて、当たり前にいつも受け取っているものがあることを知る。
そんなしあわせに誰にともなく感謝しながら、恐る恐る腕をまわしてそっと、ふわふわ踊る彼の髪の先にふれた。
「気にしてたっていうか、気にしてなかったつもりだったんだけど、なんだろ…ずっとモヤモヤして、こう…無意識に考えてたみたいで。気にしたくないのに」
「うん」
「気にしてもしょうがないことで、どうにもならないことで、チャンミンのせいじゃなくって、誰のせいでもなくって、だから…いやだとか、思わないようにって。でも不安で」
「うん」
ぼくの手のなかにある左手といっしょに、腰の後ろにまわされた彼の右手がきゅっと縮む。
「ぼくだけを見てほしくて、考えてほしくて、そばにいてくれないと不安で。だけど口を開いたらとんでもなくわがままなことを言っちゃうかもしれなくて、そばにいるのも怖かった」
「うん」
「さわられるたびに、誰かのこと思い出してたらどうしようとか、他の人とこうなってたかもしれないとか、そういうことばっかり考えて、いやで、怖くて、それで…」
「うん…ジュンス?」
必死に紡がれるその声が揺れ、シャツの左肩側が湿ってくるのを感じて、呼びかけた。
前髪ごと額を撫で上げて、上を向かせる。
水の膜に覆われた瞳いっぱいに、自分が映る。
「ごめん、どうしよう、チャンミン…わかんないよ。いやだ、すごくいやだ。他の人をすきだったなんていやだ。ぼくの知らない過去があるなんていやだ。こんなことで苦しくなって、チャンミンのこと困らせて、こんな…」
こんなかっこ悪い自分、いやだ。
そんないじらしいことを言うジュンスが、可愛くて可愛くて、しかたなくて。
幾筋も伝い落ちる涙をみつめながら、息も絶え絶えに言葉を零すそのくちびるを、塞いだ。
そこにある塩味を掬うように舌でその輪郭をたどり、甘い口内へ入っていく。
誰にも、過去はある。
ぼくだって自分の知らないあなたの時間は怖いよ。
過去も未来も、その時間のすべてがぼくのものだったらいいのにと思う。
他の誰とも分かち合ってほしくないとさえ思う。
だけどね、ジュンス、そのすべてがきっと、ここに繋がってるんだよ。
お互いをこれほどすきでいられる、今というこの時間に。
青春の猟奇的な主人公も。
悩めるイギリスの恋人たちも。
声を重ねていた去年のクリスマスイブも、きっと。
これから過ごす時間だってきっと。
そう、信じてるから。
あなたも今、ぼくと生きる時間を、そこに重ねていくふたつの気持ちを、信じていて。
「…ふ、っ、チャン、ミ…。おねが…」
キスの切れ間に喘ぐような呼吸をしながら、彼はぼくを呼ぶ。
セックスの最中みたいなその声に芯からぞわぞわしながら、冷たくなった頬を親指で緩やかになぞった。
「ジュンス…」
「めんどくさいこと言って、ごめん…気にしないようにするから、お願い…きらいにならないで」
「ジュンス。どこまでバカなんですか」
こちらに向けられるまんまるの目が、ぼくの言葉を理解できていないことを告げている。
まったくあなたは、なんて愛しいんだろう。
どれだけぼくを夢中にさせたら気が済むんだろう?
見てるこっちが痒くなりそうなほど涙に塗れたその顔に、湿り気味のタオルを押し当ててくしゃくしゃ拭いてやる。
そのまま髪の毛までわしゃわしゃ掻き混ぜて、できあがったその子どもみたいな姿に、笑った。
「きらいになるわけないでしょう?すきですよ、かっこ悪いところも、めんどくさいところも、意味不明なところも、すぐ勘違いして空まわりするところもね。ぜんぶ、すきです」
言いながら、この人にとってのぼくも同じなのかもしれないな、と思った。
完璧じゃない。
だから、どんなに信じ合っていても、思い合っていても、不安はなくならない。
ぼくは、あなたのヒーローにはなれないだろう。
つまらないことを言ってあなたを悩ませたり、傷つけたり、擦れ違いはこれからも尽きないだろう。
そばにいるというのはきっと、そういうこと。
守るばっかりじゃなくて、守られるばっかりでもなくて。
ぼくの前では前向きでいられなくなったっていいよ。
あなたの目に晒すのがかっこいい姿ばかりじゃなくても、ぼくをすきでいてくれるでしょう?
受け容れ合っていこう。
おとなげない、かっこよくない、人間らしい、お互いのすべて。
「だって…きらいって言った」
「言ってません。変に気を遣ったりする空気がいやだって言ったんです」
「めっちゃ怒った。怖かった」
「だから、ちゃんと謝ったでしょう?あれはホントに情けなかったです。怖がらせてすいませんでした」
よしよしと宥めながら、あの苛立ちも、不安も埋めるようにきつく、抱きしめる。
他人に対して本気で不機嫌さを顕にすることなんてない。
ぼくがこんなに感情的になるのは、あなたの前でだけなんですよ、ジュンス…
気づいてる?
受け容れてくれる?
「こう見えてもぼくは余裕のない人間なのでね、あなたにさわれないなんて堪えられないんです。ぼくだって怖かったんですよ?わかってますか?」
甘えるようにしがみついてくる彼の髪に鼻を埋め、確かめるようにその香りを吸い込んだ。
ジュンスは閉じ込められた腕のなかから、健気で揺るぎのない眼差しをぼくに注いでくる。
「ん…ごめん。チャンミン?」
「はい?」
「ホントにぼくがすき?」
うっ、やられた…
言った後、気まずそうにもぞもぞしないでください。
しょうがないなぁ、もう。
まーったく、めんどくさい人。
「すきですよ」
「ホントに?ぼくだけ?」
「当たり前じゃないですか。ぼくには、あなただけです。後にも先にもね」
その言葉に、彼はぱちくり目を瞬かせる。
涙に汚れた、キラキラの瞳。
明日起きたらえらいことになりそうだな。
寝る前にちゃんとケアしておかないと。
「何それ、どういう…」
「あれ、嘘ですから」
「………は?」
ああ、可愛い。堪らない。
このまま押し倒してしまえたら、どんなに…
宿舎にいることも、明日の仕事のことも、忘れてしまえたらいいのに。
いつ如何なるときも現実を見失えない自分が恨めしい。
腕を解いてみつめ合い、その鼻の上にちいさくキスをして、彼の肩をそっと叩いた。
「さ、そろそろ寝ますよ。隈なんてつくったらジェジュンヒョンに何を言われるかわかったもんじゃありません。ほら、ヒョン、顔洗ってきてください。蒸しタオル用意しておきますから」
ジュンスは毛布を引き摺りながら、立ち上がって新しいタオルを取りにいこうとするぼくの手を引いて、纏わりついてくる。
「え。え?ちょ、ねぇ、待って待って。何が嘘?何が?ねぇってば、チャンミン。なんの話…」
「だー、うざいなぁ、もう。ぼくは早く寝たいんです。ほらほら、行った行った」
まったく、どこまでも鈍いんだから。
なんの話かわからなかったのなんて、たぶんリスナーさん含めてもあなたくらいですよ。
その前の映画の話、聞いてなかったの?
結構ぼく、細かくわかりやすく説明しましたよね?
親友の恋人。
たとえばぼくとあなたとの間にそういう障害があったなら、あきらめられただろうか。
それとも、あなたの友だちの誰かがもしも、あなたをすきになったとしたら…
そういう場合、ぼくはどう行動するのだろう?
うだうだひとりで悩むんだろうな。
最後だからと心を決めて、あんな素敵な告白をする勇気、きっとないし。
逆にジュンスがああいうふうに思われたら、妬いて妬いてしょうがないと思う。
最後に思い出のキス、とか、たぶん絶対許せない。
ねぇジュンス、ぼくだってよっぽどかっこ悪くて、女々しくて、つまらない男ですよ。
狭量でわがままな本音は、映画みたいに綺麗なものじゃないけど。
猟奇的でかっこよくて男らしくて、あの頃憧れた存在とは程遠いけど。
それでも、あなたがすきだと言ってくれるから、こんな自分のこともすきだと思える。
彼らには彼らの、ぼくらにはぼくらの、それぞれのストーリー。
そこにかけがえのないしあわせがあることに感謝して。
今年のクリスマスイブ、もしスケジュールに余裕があったら、いっしょに観ましょう。
そしたらきっと腑に落ちるから。
ていうか、わかってくれるんだろうか。
いちから説明しなきゃならないかもしれない。
あのラジオの話、これのことだったんですよ、って。
怒るかな。怒るだろうなぁ。
恥ずかしがってひたすら拗ねるかも。
なんて言って宥めよう?
そんな素敵な青春送る時間なかったですよ、とか?
ぼくに女性を取り合えるような親友なんているわけないじゃないですか、とか?(寂しすぎる)
いつかふたりでイギリスに行けたらいいですね、とか。
そこで改めてお互い恋に落ちたりしたら素敵ですね、とか。
悶々と、そして延々と膨らむ妄想に、怪しい含み笑いが漏れる。
それを誤魔化しながらその煩いくちびるにキスを落とし、まだまだ眠る気のなさそうな恋人を優しく黙らせて、有無を言わさずリビングから洗面所へ彼の背中を押し出した。
It has finished,
at 22:00 March 4,2013
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