勝雪小説

□次の機会はカフェイン抜きで
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 そのシチュエーションに勝呂はいつになく緊張していた。
 そう広くもない喫茶店の角の席。テーブルの上にはアイスティ、ホットコーヒー、その向こう側には自分と同級生であった、けれど『塾』の恩師でもある彼。
 所用で勝呂が日本支部を訪れた折、ばったりと出会した。先に声を掛けたのは勝呂の方だったが、たまの機会だからと誘ったのは彼の方。思いもよらぬ言葉に驚きはしたが、勝呂は応と即答した。
 高校を卒業して三ヶ月。同郷二人と連れ立って京都へ帰る際に見送られたのが彼と会った最後だったから、久し振りと言うのには少し早い気がした。顔や声や仕草にだって記憶の中の彼と違う部分など無い。けれどそれまでは毎日のように顔を見ていた相手であったから、気分はどうしたって「久し振り」で、支部での勝呂の第一声もまたそれだった。
「どうですか、京都の方は。落ち着きました?」
 湯気立つカップに手を掛けて、彼がゆるりと首を傾げた。緊張ゆえか、一瞬問いを飲み込めなかった勝呂は、言葉の意味を理解した途端慌てて頷いた。
「はい、着いて直ぐはしばらくばたばたしてましたけど、今はだいぶ……」
「皆さんはお元気ですか?」
「元気ですよ。志摩も、子猫丸も、皆」
「勝呂君も変わり無い様子で、安心しました」
 そう言いながらにこりと笑う。この笑顔を見るのも三ヶ月振りだ。
 彼がカップに口を付けたのを見て、届けられて以降すっかり忘れていた自分のグラスを引き寄せる。冷房の効いた店内にあって、それでもグラスは既に酷く汗をかいていた。まるで自分の背中のようだと勝呂は思う。ひやりとした支部から初夏の日差しの支配する地上に出た温度差で一気に吹き出した汗は、喫茶店に入ってテーブルに着きオーダーしたドリンクが届いた頃には緊張による冷や汗に取って変わられていた。
 彼と二人きり、面と向かっている。そんな状況、今までは塾の面談でもなければ有り得なかった。だがここは昼夜を問わず薄暗くひやりとした教室でも無いし、座っているのはデスクチェアでもパイプ椅子でも無い。壁を隔てた向こう側に気安い同級が順番を待ってもいない。
「先生も、お変わり無いようで」
 カップを置いた彼にそう声を掛ければ苦笑が返ってきて、勝呂は息を飲んだ。無闇に心臓が跳ねる。自分はおかしな事を言ったのか。もしかすると緊張のあまり彼に対して妙な態度をとっていたのか。静かに混乱し始めた勝呂に、彼は首を振った。
「いえ、そうじゃなくって」
 否定をくれた彼に勝呂はひとつ瞬いた。困ったように目を細める表情は、何処か笑いを堪えているようにも見えた。
「僕はまだ『先生』なんだな、と」
 勝呂は再び瞬いた。そう呼んだのは無意識だ。しかし、と思う。
「先生は先生ですよ。教えを受けたんですから何時までだって先生です」
 塾で、実習で、任務で。彼は「先生」だった。兄や姉弟子によって態度が崩れていたって、ひとたび先生と呼べば彼は先生として振り向いた。正規の立場である講師という呼び名よりも教師や先生がしっくりくる程に、彼は「先生」だ。苛烈とも言える厳しさは鬼と呼ばれるに相応しかったが、理不尽は無かった。全てに筋の通った厳しさだった。まさに聖職者呼ばれるべき人だったと、勝呂は思っている。
「先日志摩君からの電話を受けた時も、若先生と呼ばれました」
「当然ですよ」
 恩師は敬うものだ。それが出来ない輩など明陀の門には居はしない。けれども彼は……困ったように笑うのだ。
「そうですね、気持ちは分かりますし、そう思って貰っている事を嬉しいと思う気持ちもあります。でも……」
 彼が目を伏せた。
 テーブルの上のコーヒーは、彼の元へ届けられた時と比べて湯気を半量以下に減らしていた。白いカップに注がれた黒は、一口分だけ容積を減らしただけで、ただ熱量を奪われ続ける。
 ふと、彼が視線だけ上げた。その表情が、目の高さのほとんど変わらない勝呂にとっては物珍しい、上目使いのようなそれになっているのだと気付く前に、彼から続きが零された。
「僕はまだ『先生』で在り続けなければいけませんか?」
 その言葉に勝呂は射抜かれたような衝撃を受けた。
「先生」である彼の、けれど「先生」である事を望まぬ言葉。予想だにしなかった。彼がそんな事を考えていたなどとは。
 しかし、「先生では無い彼」を考えてみれば、それは確かにずっと存在していたのだ。高校生活の中で顔を合わせ言葉を交わしたのは一度や二度ではなかった。他愛ない談笑をしていた。そもそも一番最初に見た彼は、講師でも祓魔師ですら無い、生徒の代表となる程に優秀ではあるけれど、それでもただの一生徒だったのに。
「それは……」
「ああすみません。責めたい訳ではなくて。講師を勤めているのも確かですし、呼び方や言葉遣いってそうそう直ぐに改められるものでもありませんからね」
 彼はそう言ったが、謝罪すべきは自分だと勝呂は首を振った。
 勝呂の中で何時の間にかすっかりと欠落してしまっていた。例えひどく大人びていて、通った塾の講師であり、所属団体の上役であっても、彼は同級生だったのだという認識。
「ですが」
 苦笑を浮かべた彼は、白いカップを持ち上げながら口を開く。
「そう畏まられるのも、少しこたえるなあと、思います」
 それからまた一口、音を立てずにコーヒーを飲んだ。
 彼の言葉に、呼び方や言葉遣いのみでなく、その身の緊張を見抜かれていたのだと知る。それはそうだろう。肩も顔も強張っていたのは自分でも分かっていた。勝呂と付き合いの薄い相手であれば普段通り、初対面なら不機嫌ではないかと誤解されるだろうそれも、三年過ごした彼には容易く緊張しているのだと知れたに違いない。
「もっとリラックスして下さい。お互いコートは脱いで来てるんですから」
 ね、と柔和に微笑む彼の顔は、先生である彼がしばしば浮かべていたアルカイックなそれではなかった。
 騎士團の日本支部で顔を合わせ、けれど二人は今祓魔師のコートを纏ってはいない。それはプライベートな時間を意味していた。そしてその空間には祓魔師という生業や階級という上下関係は存在しないのだと、彼はそう言っているのか。
 言葉に含まれた意味を飲み下したと同時、勝呂は無意識に喉を鳴らした。そこでひどく喉が乾いている事に気付いて、放置してしまったアイスティーへと手を伸ばした。氷は大きく容積を減らし、テーブルの上にはグラスから滴った結露で水溜まりが出来上がっている。味の薄くなった紅茶で喉を潤しながら、緊張のあまりこれの存在をすっかり頭からすっ飛ばしていたのだろうなと思い、己の情け無さを感じた。
 グラスから口を離した後に出た溜め息が思っていたより大きく響いたが、気にはならなかった。上手く力が抜けたからだろう。大きな溜め息を彼に笑われても、笑い返す余裕が勝呂には生まれていた。
「なんであないに緊張してたんでしょうね? 自分でもよう分かりません」
 勝呂自身、強張りの解けた今となってしまえば不思議だった。今までに無い状況ではあったが、緊張する必要は何処にも見当たらない。
 苦笑する勝呂に彼が首を傾げた。
「そうですか? 僕は『鬼講師』が怖かったのかと考えてましたけど」
「それは無いです。なら最初から話し掛けませんて」
「まあ、そんな人じゃありませんよね、勝呂君は」
 首を振れば彼に僅かに安堵の色が覗いて、先程畏まられてこたえたと言っていたのは本当だったのだと知る。
 彼も不安になるのだ。そう思うと、手の届かない存在だと思った事は決して無かったが近しい存在だとも思っていなかった彼に対して、じんわりと親しみが湧いた。
 ゆるり、和やかに変わった二人の間の空気。照れを残した表情の彼が、それまでよりは少し砕けた口調で話し出す。
「僕、『先生』って呼ばれるとスイッチ入っちゃうんですよ」
「スイッチ、ですか」
「何て言うのかな……反射的に講師モードに切り替わる、みたいな」
「ああ……分かります、なんとなく」
 TPOの切り替えは社会で生きていく上で誰にでも必要な事だ。そのスイッチングが意識的か無意識かは個々や場面にもよるだろうが、彼にとっての「先生」呼びは無意識で且つ極端なスイッチなのだろう。彼が先生らしい先生だったのはそういった無意識下のスイッチングの作用もあったのかも知れない。
「疲れますか、『先生』で居るの」
「それはまあ、僕も人間ですからね」
 講師として塾生達に注意を払い続けるのはさぞや気力の要る事だろう。普通の学校とは受け持つ人数も時間も違うが、危険度で言えば普通の学校の比ではない。その上でよくもまあと言える程我の強い面々の集まりだった自分達生徒を御するのには酷く苦心しただろうし、志摩や奥村兄のような生徒――特に後者――を相手に学習させるのもそれはもう大変だったに違いない。その点の彼の苦労は散々垣間見ている。彼の疲労は易く察せられた。
 ふと、彼のまぶたがとろりと下り掛けている事に勝呂は気付いた。こんな風に隙を見せる彼は珍しい。
「……もしかして、任務明けでした?」
 こっくりと頭を揺らしたのは肯定の仕草であったのだろうが、ともすれば舟をこいだようにも見えた。勝呂の緊張が解けたと同時に彼もどこか綻んだのか、先生の彼と比べてしまえば吃驚する程に、今の彼は無防備だった。
「さすがに三徹はきつかったです」
「それはきっつい。お疲れ様です」
「目覚ましになるかと思ったのもあって勝呂君を誘ったんですけど……逆効果だったかも」
 そう言いながら彼はコーヒーをすする。そのコーヒーのオーダーもそれをブラックのまま飲んでいる事も、恐らくは眠気覚ましの意図を持って行われているのだろう。余り功を奏してはいないようであるけれど。カップを両手で支えているのは、無意識なのかそれとも眠気で片手で持つのも危うい程に力が入らないのか。
 不意に閃いて、勝呂は悪戯心でそれを実行した。彼がこんな幼とけないとでも言えそうな姿を晒すから、そんな気分になったに違いない。
 意図的に緊迫感を乗せた声音で呼び掛ける。
「――『先生』」
 ぱちっと目を開いて背筋を伸ばした彼に、勝呂は控え目ながらも声を上げて笑った。
「ほんまにスイッチなんやな」
「勝呂君……」
 恨めしげに名を呼ばれたが、彼は直ぐに表情を崩した。
 一頻り笑い合って、ふうと息をつく。それから彼は残り少なくなっていたコーヒーを飲み干した。ソーサーの上に、琥珀色の名残だけを残した白いカップを戻し、笑顔を見せる。『先生』の微笑みに混じって悪戯っぽさがひらめいていた。
「罰として、以後勝呂君は『先生』呼び禁止とします」
「殺生な事言いはりますね」
「悪戯する生徒には当然の処置ですよ」
「生徒扱いなのに、先生て呼ばせへんのですか?」
「そうです」
 顔を見合わせ、何となくで笑い合う。その彼の笑顔は、勝呂が今までに見た事の無い、暖かなものだった。
「……でも、先生は先生やなぁ。なんかしっくりきませんわ、ほかの呼び方」
「慣れだと思いますよ。奥村でも雪男でも呼んで下さい、頑張って」
「はぁ……頑張ります」
 それからまた二人で笑い合った。高校生活で高校生の彼と交わした会話とも違うやり取り、雰囲気は、とても心地が良かった。
 もしかするとあの良く分からない緊張は、対応を失敗して彼に見損なわれたくなかったゆえだったのかも知れない、と勝呂は思った。それはきっと、彼が畏まられたくないと言ったのと似た想い。
 和やかな会話を続けながら、勝呂は「頑張る」機会をひっそりと窺った。その時の彼の反応を楽しみにして。


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勝雪普及の一助になれますように…素敵な企画をありがとうございました!


 

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