幸せ崩し

□優しさとは何たるものか
1ページ/2ページ


 優しい男。僕のことを、他人はそう評価していた。
 例えば誰かに意地悪をされても、僕は決して告げ口をしなかった。意地悪される己にも非があることに気づいていて、もしそれを注意されれば結局は自分も怒られてしまうからである。うまい言い訳で逃れられたとしても、いじめた側は納得せず、『あいつも悪い』と恨み続けるかもしれない。
 僕は自分の非である弱みを見せるのが怖かったのだ。ただの臆病だったのだが、かえって他人はそれを『優しさ』と判断しただけの話だった。
 しかし父だけは僕のことを『優しい』などと評価したりはしなかった。腑抜け、とことあるごとに非難するのだ。しかしそこには感情がこもっておらず、怒りも悲しみも憎しみさえも見えはしない。一度だって罵られたことはない。期待されていなかったのだ。叱ることは、相手を良くしようとして行なうものだが、非難は自分の苛立ちを発散するものでしかない。そして父の非難には感情が一切含まれていないのだから、その辺の石ころに「お前は腑抜け者だ」と言うのと何らかわりはなかった。
 僕には兄が3人いた。けれども、末っ子の僕が一番出来の良い子であった。ゆえに苛められた。しかしそれを父に訴えたところで、「お前が悪い」と突き放されておしまいだった。それからは誰かに期待することを諦めた。告げ口は二度としないと、幼いながらも心に決めた。それが結局は『優しい』という評価に繋がるのだから、馬鹿らしい。

 お前が悪い。その意を汲み取ろうと小さな頭で考えては、日が昇り、そして答えにたどり着いた。
 偽りの弱みを見せればいい。本当の弱みを隠せるし、偽りをどんなに嘲笑われても痛くない。わざと池に落ちたり寝坊したりしては兄たちに馬鹿にされた。次第に兄たちは「こんな馬鹿にかまっている方が馬鹿だ」と言うようになり、時折僕を侮辱するだけで済むようになった。
 父はそんな僕を誉めるでもなく、また叱るでもなく、すれ違いざまに「腑抜け」と感情なく非難したのだった。そう、後に何度も言われる台詞を、このとき初めて聞いたのだ。そして、僕は血の気が引くような心地で立ち尽くした。父は僕の浅はかな愚策に気づいた上で、一片の感情も分けてはくれなかった。
 期待されていない。それに初めて気がついた。

「お前が悪い」
 今思えばそれは父が“父親”を演じようとした偽りの言葉でしかなかったのかもしれない。短い一言に深い意図を見いだそうとした己は、なんと愚かであっただろうか。

 それでも僕は“腑抜け”でいるしかなかった。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ