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「お前、うちの殺し屋にならねぇか?」
蝉は薄暗い路地裏で見知らぬ男に声を掛けられる。
つい数分前に仕事を終えて、人目を避けるようにこの薄暗い道を歩いていた所だ。
「誰だ、お前?」
「俺は、いわゆる仲介人って奴だよ。俺は知ってるぜ?お前、蝉って言うんだろ」
男はくわえた煙草を手に持ち直し、蝉に向ける。
細い糸の様な煙がゆらゆらと蝉の前に立ち上る。
「俺は今、困ってんだよ。最近の奴らはどうも仕事が甘くてよ、いまいち信用ならねぇ。うちとしては腕の立つ殺し屋を雇って、客の信頼を得たいわけだ」
男は肩を竦ませて、再び煙草を噛む。
「それで、俺に声を掛けたのかよ?」
「そうだ。なぁお前いいナイフの腕をしてるらしいじゃねぇか。うちは、手取りいいぜ?ほかの所みたいに、取るだけ取って、残りカスを渡すようなマネ、しないしよ」
男はニヤリと笑う。
胡散臭ぇやろうだな、と蝉は冷めた目を向ける。
「生憎だが、俺は今の所で間に合ってるよ。仲介なんて、どんな良い話を持ち出したところで、結局どこも同じだ」
蝉は手を振り、男の横を通り過ぎようとする。
「ちょっと待てって」
男は蝉の腕を掴み、引き留める。
「何だよ?殺し屋なら他をあたれよ。人を殺したがってる奴なんて、その辺にごろごろ居るっつーの」
蝉は腕を振り払い、睨みつける。
男はひるむ様子もなく、蝉に一歩近づいた。
そしてその目をじっとのぞき込み、囁くように言う。
「1000万だ、1000万用意してやるよ。どうだ?太っ腹だろ?」
「あ?何の話だ?」
「俺からの依頼だよ。今の雇い主を殺して、俺の所に来い。その報酬が、1000万だ。どうだ?今のお前にとっちゃ、かなりの大金だろ?」
蝉は気付かず、後ずさりしていた。
あいつを殺す?
蝉は事務所で待つ、ニヤケた上司の顔を思い出す。
そりゃ、あいつはケチだし、搾取野郎だし、仕事の事だって何にも教えてくんねーけど
殺す?
俺が、あいつを?
「ま、すぐにとは言わねぇからさ。そうだな、3日後に返事をくれよ」
男の声に蝉はハッと我に返る。
「じゃあな。いい返事、待ってるぜ」
男は蝉に名刺の様な物を渡すと、去っていった。
蝉はそれをろくに見ないまま、しばらくそこに突っ立っていた。
今まで、頼まれれば誰だって殺してきた。
迷ったことなど無かった。
それが仕事だから。
なのに何だ?この迷いは?
蝉は後ろを振り返る。
男の姿は、もう消えている。
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