マギ

□遠い瞬きに囁くB
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規則正しく並べられた石畳の上を駆け抜けていく足音。

軽い足先の持ち主は閉じられた扉の前で一度止まり、それから遠慮がちにノックをした。

「シンドバッド王。ヤムライハです。砂漠セアカ毒蜘蛛の調査報告に参りました。」

ドア越しにシンドバッドが入るように彼女を促し、ヤムライハは王の部屋へと身を滑り込ませた。

「あれから三日経ったな。ジャーファルが殺した他に別の毒蜘蛛は見つかったか?」

「いいえ。船内から宮廷内までくまなく探しましたが毒蜘蛛は発見されていません。ジャーファルさんを襲った毒蜘蛛は環境の変化に弱く、南国のシンドリアでは三日以上生息出来ないとの事なので被害の拡大は無いでしょう。毒蜘蛛の件についてはご安心下さい。」

ジャーファルの一件が起こってから3日が過ぎた。

砂漠地帯に住む毒蜘蛛が南国のシンドリアで繁殖しない事が判明し、シンドバッドは胸を撫で下ろすが、まだ手放しでは喜べない。

未だ治療の為、煌帝国に一人身を寄せているジャーファルの事が心配でならないのだ。

「ジャーファルの額に付いている魔石は奪われずに済んでいるようだ。魔石がジャーファルの無事を俺に伝えてくれている・・・だが、気になるのはあの毒蜘蛛だ。」

「ええ。ジャーファルさんが噛まれたというのが気になりますので、私も調べてみたのですが、毒蜘蛛からは魔法の気配は感じられませんでした・・・ですが・・・」

毒蜘蛛が何者かに操られジャーファルを襲ったようには感じられないが、その代わりにヤムライハは別の気配を感じ取っていて、それをシンドバッドに告げる。

「私はあの時、ジャーファルさん自身に『呪詛』のような呪いがかけられていたように感じました。ジャーファルさんの身に災難が降りかかるように仕向けられた呪い・・・それのせいでジャーファルさんは蜘蛛に噛まれて瀕死の状態にまで陥ってしまったのだと・・・」

「呪詛?この国の者の仕業か?」

「いいえ。近くの者ではありません・・・もっと遠くの場所から遠隔魔法で術を施しています。結界の張ってあるシンドリアで特定の人物だけを狙って呪いを掛けるとなると相当な使い手になります。」

「腕の立つ魔法使い・・・もしくは複数による集結された魔法か。」

ジャーファルに呪いを掛けた相手―――


「『アルサーメン』の仕業か・・・」

「恐らく・・・これほどの魔法と陰湿な手法・・・彼ら以外には考えられません」

苛立ちを隠しきれない顔をしたシンドバッドはギシッと奥歯を噛み締める。

アルサーメンに掛けられた『呪詛』により、ジャーファルは毒蜘蛛に噛まれ煌帝国へ行く羽目になった。

アルサーメンからすればジャーファル自身の魔力など取るに足りないものだろう。

だとすれば、アルサーメンの目的はジャーファルではなく、ジャーファルの体内に宿る『シンドバッドのルフ』。

「厄介な事になりそうだが、ジャーファルを託した相手が紅炎であったのが唯一の救いだな・・・」

少なくとも、紅炎はアルサーメンと敵対関係にあるのは確信していた。

それは、以前、マグノシュダットにおいてシンドバッドと共に紅炎もアルサーメンが生み出した『依り代』を破壊した事で証明されている。

「・・・シンドリア国王という身分を今ほど悔やんだ事はないよ。」

うかつに煌帝国へと足を踏み入れない自分の身分と、ジャーファルの側に居てやれない不甲斐なさにシンドバッドは深い溜息を吐く。

その様子を見て、ヤムライハもまた心を痛めていた。



―――同時刻。煌帝国、紅炎の離宮にて。



「ジャーファル殿!起き上がられて大丈夫でありますかっ!?」

部屋の扉を開けた途端、夏黄文は驚きに大声を上げてしまう。

それというのも、蜘蛛による毒のせいで全身が麻痺して寝たきりだったはずのジャーファルが一人で起き上がりベッドに座っている姿を目にしたからだ。

「治療を受けてから3日も経っているんです。おかげさまで今朝は調子も良く起き上がる事が出来ました。でも、足の感覚はまだ戻らなくて・・・」

朝の挨拶を笑顔で済ませるジャーファルは残念そうな表情で動かない足を撫でさする。

「毒に強い体質だとは聞いておりましたが、これほどまでに早い回復をされるとは驚きでありますよ。足の方は古傷のせいで血の巡りが悪いから治りも遅いとの事です。後、もうしばらくは治療に専念して下さい。」

「ええ、そうですね・・・・」

足の治りが遅いのは傷があるから。

それは分かっているけれど、早く治療を終えてシンドリアに帰りたいジャーファルは苦痛でならない。

好戦的な国に滞在するジャーファルは身の置き場が無くて治療していても気が休まらないのだ。

この離宮には結界が張ってあるので外部から侵入者が忍び込む事は無いらしけれど油断は出来ない。

しかし、そのような境遇にあっても幸か不幸か、離宮の主である紅炎は遠征へと出陣していてジャーファルとは初日に顔を合わせたきり会っていない。

このまま何事も無く治療を終えてしまえれば・・・

「ああ、今日は紅炎様がお帰りになる日でありますので、ジャーファル殿の回復を見て喜ばれることでありましょう!」


・・・ゲッ!、と。思わず心の声が出そうになった。

紅炎が煌帝国に帰って来るとなれば、当然、自分の様子を見に来るだろう。

思い返せば、初対面の日、紅炎に寝たきりの無抵抗な身体を裸にされた上にあらぬ場所まで触られた記憶が蘇る。

紅炎にとっては貧弱な身体を鑑賞して楽しんでいただけだろうけど・・・

ジャーファルにとって、シンドバッドが愛してくれた身体を見られてしまったのが心苦しくて、申し訳なさに胸が張り裂けそうだった。


その時、離宮に張り巡らされた結界が大きく揺らぐ。

結界を張った者が、その領域に足を踏み入れた気配にジャーファルは紅炎が帰って来たことを知った。


「紅炎様、お帰りなさいませ。」

扉が開くと同時に夏黄文が深々と頭を下げて紅炎を出迎える。

戦装束の姿で現れた紅炎は遠征先から帰国したその足ですぐにジャーファルの元へ来たのだろう。

紅炎の姿を目にしたジャーファルも不自由な身体を折り曲げ礼をする。

「寝台の上から申し訳御座いません・・・紅炎様のご無事の帰還を心よりお喜び申し上げます。」

「堅苦しい挨拶は要らぬ。そなたの様子を見に来ただけだ・・・しかし、もう起き上がれるほどに回復しているとは。」

紅炎も夏黄文同様、ジャーファルの回復の早さに驚いていた。

そして紅炎が現れると、夏黄文が事前に命令されていたかのような自然な動作で退室し姿を消してしまう。

二人きりとなった部屋の中、紅炎はジャーファルの居るベッドへと歩み寄ると近い距離で囁く。

「起き上がれるなら、このまま外の空気を吸いに出てみるか?」

「え?あ・・・でも、私はまだ足が動かせなくて・・・」

歩けません、と紅炎の申し出を断ろうとしたジャーファルの身体がフワリと中に浮く。

「歩けないのなら俺が連れて行くまでだ。」

「うわわっ!?こ、紅炎様っ!私のような者を抱き上げるなんて・・・・お、降ろして下さい!」

シンドバッドとほぼ同じくらいの背丈がある紅炎に抱かれると、ジャーファルの視界はかなり高いものになる。

しかも抱き方は横向きで、いわゆる『お姫様抱っこ』というものだ。

男としてこんな屈辱は許せないところだが、今のジャーファルには抗うほどの力も無ければ、紅炎に楯突くなど出来ない立場だった。

仕方なく、ジャーファルは不自由な足を庇いながら紅炎の腕から落ちないよう大人しく身を任せる。


「さぁ、着いたぞ。離宮の上から見る街の景色は格別だ。」

「え?・・・・あ、」

髪を通り抜けていく乾いた風に誘われジャーファルは顔を上げて空を仰ぐ。

ずっと部屋の中で寝てばかりいたせいで久しぶりの太陽が目に痛い。

眩しさに目が慣れるまで何度も瞬きを繰り返した瞳に映るのは煌帝国の見事なまでの町並み。

「綺麗・・・」

「ああ。そうだろう。我が帝国が誇る街だ。」

眼下に広がる街を見下ろし、紅炎は得意げに言い放つ。

小さな島国のシンドリアとは違い、煌帝国は広大な国土を有する。

土地が広いおかげで区画整理がシンドリアよりも進んでいるらしく、街が碁盤の目のように規則正しく並び、道路も家も計算しつくされて建てられている様子だ。

「帝国の居住区は管理が行き届いているんですね。ふふ、シンドリアの町なんて狭いから家の上に家を建てているんですよ。これといった規制もないから塗装の色も好き勝手だし・・・でも、それはそれで味があって好きなんですけど。」

腕の中から身を乗り出して夢中になっているジャーファルを、紅炎はそっと石段の上に座らせてやる。

「落ちるなよ。ここは屋上だ。」

「ええ。こう見えても、私、運動神経は良い方なので・・・それに、高い所も好きです。」

紅炎の手を離れたジャーファルは好奇心で一杯の子供のように石段に手を付き、街を眺めては嬉しそうに風と戯れる。

「ここは大陸ですから風が乾いているのですね。南国のシンドリアは空気が湿っているから帝国の風は気持ち良いです。あ、でも、海の匂いがしないのは寂しいですね」

積み上げられた石段の向こう側は足場の無い高所だというのに、ジャーファルは臆することもなく、楽しげに会話をしていた。

「そなたはシンドリアの話ばかりだな。」

「あっ、いえ・・・そんなことは・・・ない、とも言えませんが。」

歯切れ悪く返事をしたジャーファルは、自分がシンドリアの事ばかり口にしていたのだと気付いてハッとする。

いくら久しぶりの外で開放感があり、普段では目にすることの無い他国の町並みに気分が高揚したとはいえ、はしゃぎすぎた。

しかも、紅炎の前で・・・

「そなたは不法入国の身。しかもシンドリア王国の重鎮で王の側近という身分だ。私が帝国政府へ突き出せば、そなたはスパイ容疑を掛けられ、ひいては我が帝国との開戦への糸口にもなるやも知れん。」

「・・・・」

紅炎の脅しにも似た囁きに耳を傾けながら、ジャーファルは沈黙を保つ。

「帝国に突き出されたくなれば、この離宮でずっと留まっていろ。」

「・・・それは、私を軟禁すると仰っておいでで?」

この男は自分を欲しがっている?そんな疑問にジャーファルも僅かながら動揺すると、紅炎はさらに追い討ちを掛ける。

「そなたが欲しい。」

「ご冗談を。」

冗談であって欲しかった。

しかし、目の前の男は冗談を言っているような顔をしておらず、赤い瞳は射抜くようにジャーファルを見つめている。

「ここでは誰も助けは来ない。我が物となれば、そなたの身も、そなたの国の平和も約束しよう。」

紅炎の言葉はシンドリアを想うジャーファルの心を抉った。

「卑怯・・・ですよ。」

やっとそれだけを言ってジャーファルは目蓋を閉じる。

目の前の暴君を受け入れる以外、どんな選択肢も残されていなかった。

「悪いようにはしない。」

そっと抱き寄せられて、腕の中へと身体が収められてしまう。

固く目を閉じているからこそ、ジャーファルにはより鮮明に紅炎の屈強な体格が感じ取れた。

ジャーファルは大柄な方ではないし、痩せ型なのは間違いではないが、それでも女性よりは重い。

その自分をまるで子猫のように何の苦も無く抱き上げ離宮の屋上まで運べるのだから、細身でスラリとしているように見えても、この異国の皇子は屈強な筋肉を持っていた。

暗殺に優れているといってもジャーファルは手負いの身。

いや、万全の体制であったとしても紅炎からすればジャーファルなど素手でどうにでも出来るのだと示している。

「ジャーファル・・・」

思いがけず名を呼ばれ、ジャーファルは瞳を上げた。

そのジャーファルの瞳に映るのは優しげで穏やかな紅炎の顔だった。

風に揺れる朱赤の髪がジャーファルの頬にかかり、端正で美しい顔につい見とれてしまう。

一瞬の後、間近で見ている紅炎の唇が動く。

「・・・・んっ」

重なる唇に動揺してジャーファルの身体が大きく揺れた。

口付けを受けている?煌帝国の紅炎が?私に?

戯れや冗談だとしても度が過ぎる。

「お止め、くだっ・・・さ・・」

ジャーファルは必死に顔を背け、かろうじて逃げた口の端で訴えたが、かえって開いた唇の隙間から紅炎の舌の侵入を許してしまった。

それはジャーファルの口内で生き物の如く蠢き、息苦しさと甘い痺れをもたらす。

「そのように怯えるな。」

暫くの後、離れていった艶のある唇がジャーファルに囁く。

そして、その唇はジャーファルの頬をかすめ、首筋を辿り、宥めるようなキスを落としていった。

「拒めるのは今だけだ、ジャーファル。」

長い指で優しくジャーファルの髪を撫でながら紅炎が言う。

そうして一度強く抱きしめると、また唇を合わせてきた。

触れるだけの軽い口付けが、次第に深くなっていくのをジャーファルは受け入れるしかない。

―――これは、支配。

狂おしいような抱擁を受けると、シンドバッドを思い出し、紅炎の姿と重ねてしまうけれど、これは違うのだと自分に言い聞かせる。

―――これは、愛情ではない。支配なのだ。


だって、こんな風に自分を抱いていいのは、こんな風に口付けて許されるのは・・・・


―――シン、だけ。

 なのだから・・・








*****
つづく。

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