*世界一初恋*
□深海に、眠る。
1ページ/3ページ
昇り始めたばかりの太陽が、朝の凛とした空気を優しく包み込む時間。
夏の残暑はまだその影を潜め、空気はすがすがしく肌寒いと思えるくらいの気候。
「小野寺、何してる?早く行くぞ。」
「わぁ・・・ちょ、ちょっと待ってて下さい!」
風を切って走るように設計されたスタイリッシュなフォルムを描く2シーターのスポーツ・カーに肘をかけ、高野は車の前を通り過ぎていく律に叱咤する。
忘れ物かと思いきや、律は家とは反対方向の道路に飛び出し、数分後に缶コーヒーを持って戻って来た。
「・・・コーヒー買いに行ってたのか?そんなもん何処ででも買えるだろう?」
「だって、寝ぼけた頭と体にブラック・コーヒーは必要でしょ?特に高野さんは運転手なんだから・・・はい。ホットですから気をつけて。」
近くの自動販売機で缶コーヒーを買ってきて、それを車に乗り込んですぐに運転席側のドリンクホルダーに差し込む律。
ふたつ並んだお揃いの缶コーヒーのように、運転席と助手席には高野と律がふたり並んで座る。
「一つでいいのに、缶コーヒー」
「え?どうしてですか?」
「一つのコーヒーを二人で分けた方がいいから。」
「・・・・今度、そうします。」
いつに無く素直に高野の提案に従うのは、仕事とは言え水族館に行けると言う嬉しさのせいかも知れない。
・・・・水族館の資料が必要だ。と言われたのはつい昨日の事・・・
律が担当する作家が、今度水族館で主人公達をデートさせる設定でネームを寄越してきたのだが、肝心の水族館の資料がなくて原稿が描けないと泣き付いて来た。
そんなものは水族館の案内パンフレットを見て描けばいいじゃないかと言ったのだが、やはり来園者としてのアングルが欲しいし、人の流れも描きたいからと却下された。
おまけに原稿で手一杯の為、作家本人が悠長に水族館見物など行ってる暇などなく、仕方なく律が写真を撮って来る事になったのだ。
「水族館の開園は何時だ?」
「あ、えっと10時からです・・・平日だし駐車場も空いてると思いますよ。」
律から渡された缶コーヒーを運転しながら、片手で器用にプルタグを開き口に運ぶ高野も心なしか嬉しそうに律の目には映る。
缶コーヒーのフタ、開けてあげるべきだったかも・・・などと反省しつつ、律はまだ高野が水族館取材に付き合ってくれる礼を述べていない事に気づく。
朝一番の慌しさについ言いそびれてしまったけれど、今日一日は始まったばかりだし幾らでも言えるからと自分に言い訳して、律は温かい缶コーヒーを手にするのだった。
それから1時間と半刻ほど要して高野と律はお目当ての水族館へとやって来た。
海に隣接した施設は昔ながらの風情を残すこじんまりとした水族館で、小さな子供連れが目立ちそれだけでものんびり出来そうな場所だった。
入り口でもたつく律を尻目に、高野が素早く入場券を買い、『俺が払います!』と焦っている律の手をグイグイ引っ張り中に入る。
その途端、律の口から溜息が漏れた。
目の前のメイン大水槽に思わず心を奪われたせいだ。
「すごい、高野さんっ!魚が一杯いる!!」
「・・・そりゃ、水族館だからな・・」
「いいから早く!もっと近くで見ましょう!」
いつもの皮肉めいた高野の言葉も気にならないのか、律は突っ立っている高野の腕を掴むと嬉々として大水槽へと引っ張る。
・・・律の方から腕を掴んで来るなんて・・、と高野は律のはしゃぎっぷりに微笑んだ。
「すごい、すごい!高野さん見て!おっきなエイが泳いでる・・・すごーい・・・まるで水中を飛んでるみたい・・・ね、エイの下にくっついて泳いでるのなんだろ?」
「・・・・小判ザメじゃないか?パネルにもそう説明書きがあるし」
足元に書かれている魚の種類書きに目を落とす高野に対して、律は水槽から目を離したくないらしく『じゃあ、あの魚は何ですか?』と自分はパネルを見もしないで高野に説明を求める。
平日の開園直後という事もあり人もまばらだし、来園者は小学校に行っていない小さな子供ばかりだ。
その子供に混じって、律も負けないくらい好奇心一杯で水槽に張り付いている姿は微笑ましいとしか言いようが無い。
「律、イルカショーの時間になるぞ。早めに行って前の観覧席を取っておこう。」
「・・・・あ、はい!」
少し未練がありそうだが、イルカショーにも興味を示す律は高野の言葉に素直に従い、やっと水槽のガラスから離れてくれた。
「その前に、写真撮っておけよ。」
「え?写真?」
「・・・お楽しみの気分をぶち壊して申し訳ないが、此処には『取材』の名目で来てるって事を忘れるな。」
「ああああっ!!写真〜〜〜!撮ります!撮ります!!待ってて下さいよ、高野さん!」
あどけない子供の表情から、いつものバツの悪い顔をして律はカバンからカメラを取り出すと水槽全体を映していくのだった。
その際、高野が何処にも行かない様に何度も『待ってて下さい!そこに居てて下さいよ!』と念を押すのにはさすがに苦笑した。
「どうした?食べたいのか?」
いきなりそう言われて、律は我に返るとフルフルと首を横に振った。
イカ焼きなんて食べている高野が珍しくて、まじまじと見てしまっていた律は慌てて手元にある焼きソバを啜る。
イルカショーを見て、昼近くなり小腹を満たそうと高野が選んだのは屋台が立ち並ぶテイクアウトの飲食コーナーだった。
資料用の写真も撮れたし、高野の事だからてっきり水族館を出てお洒落なカフェとかに行くのかと思っていたので、高野にイカ焼きの組み合わせは不思議で仕方ない。
「・・・まだ、見たいんだろ?」
戸惑いつつ焼きソバを口に運ぶ律に高野はそう問いかけた。
「いいんですか?」
「折角だ。今日一日は此処でゆっくりしよう」
その言葉に律は目を丸くして驚いたが、律にとっては願っても無い選択だった。
そうして午後からも水族館にいる約束をして、食べ終わった紙皿をゴミ箱に捨てると、高野はごく自然に律の手を取り館内に招き入れてくれる。
(・・・なんだか、デートみたいだ。)
・・・などという淡い気持ちを抱きながらもあえてそれをおくびにも出さず、それでも繋いだ手を離さない律はこれをデートとして満喫していた。
まだメインの大水槽しか見ていなかった律は通路に並ぶ小さな水槽で泳ぐ魚達にも魅入っている。
中ほどにまで進むと、今度は日本近海の海を展示した回遊魚の水槽がありそこではアジが群れをなして泳いでいた。
色とりどりの熱帯魚とは違い華やかさは無いがウロコが銀色に光りそれが塊となっているので思わず息を飲む美しさがあった。
自由に泳ぐ魚の群れを見ていると時間さえも気紛れに流れているようで、律はそのたゆたうような時間の水流に飲み込まされそうになる。
「溺れるなよ、律。」
そんな律の心情を読み取ったかのように、高野があたらずしも遠からずな言葉を言ってきた。
「・・・溺れる訳・・・ないでしょ?」
「溺れそうに見えるんだよ。」
確かに見入り過ぎて感覚的には溺れてたかも知れないと押し黙る。
でも、律がそれ以上言い返せなくなった原因は・・・・
------今、高野さんが・・俺の事を『律』って呼んだ・・・・
------いつから?気づかない内に、もうずっと前からそう呼ばれているような気がする。