マギ
□優しい命令
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―――『コ ロ セ』
「いやあああぁ―――っ!!」
「ジャーファル!?」
断末魔の悲鳴がジャーファルの口から迸り、静かな森の奥に響く。
ジャーファルは叫ぶと同時に、目の前にあったシンドバッドの胸を突き飛ばして逃げるように走り出した。
何かに怯えて闇雲に駆け出すジャーファルの後ろを、シンドバッドがすぐさま追いかける。
「ジャーファル!待ちなさい!!」
「王様、今度は一体何が!?」
尋常ではない事態に気付き、ヤムライハも血相を変えて追いかける。
ただでさえ未知数で危険な森の中だというのに、混乱状態にあるジャーファルを見失うわけにはいかなかった。
こんな場所で一人取り残されれば、精神は破壊され人格崩壊する恐れだって充分考えられるのだ。
だが、前を走るジャーファルは行く手を阻む草木を掻き分け、ぬかるんだ泥の地面になど足をとられるふうもなく駆け抜けてしまう。
さすがは元・暗殺者なだけはあると改めて思い出したシンドバッドは、それでも彼との距離を離されないで付いて行く。
「このまま追いかけていても埒があきません!何かでジャーファルさんの足止めをしないと・・・」
「クソ、仕方が無いな・・・」
ヤムライハの言うように、確かにこのまま追いかけていても三人して森の奥深くに誘い込まれるばかりでジャーファルを捕まえられない。
多少の犠牲を払ってでも、今はジャーファルを止めるほうが最優先だ。
シンドバッドは『チッ』と舌打ちすると腰布に忍ばせていた短剣を取り出し、ジャーファルの足元へ狙いを定めて放つ。
シュッ、という空気を切る音に続いて、刃物が地面に突き刺さる音が鳴る。
シンドバッドの放った刃は狙い通りにジャーファルの足首をかすめ、僅かに足首の皮膚を切られたジャーファルは痛みのせいで体制を崩し、その場で足を止めた。
「ジャーファル!」
このまま両腕で彼を拘束し、そのまま逃げられぬよう抱き込んでしまおうとシンドバッドは手を伸ばす。
しかし、自身の手がジャーファルに触れるか触れないかの瞬間、シンドバッドの頬に鋭い痛みが走る。
「・・・な、に?」
「王様!?」
ツーッ、と流れる血が、シンドバッドの頬に赤い線を描く。
しばらくして、短剣をかまえているジャーファルの姿が目に入り、自分が彼に傷つけられたのだと理解した。
「そんな、おかしいわ・・・この森は人に幻覚を見せるだけで誰かを襲うような行動など起こさせないのに・・・どうして?」
これまでの報告で森が人に与える影響など、酒に酔った程度のものだったのに、今のジャーファルにはハッキリとした殺意が漲っている。
それではまるで、ジャーファル自身が『シンドバッドを殺す』事を願望にしているみたではないか?
そんな訳など無い。
忠誠心の塊のようなジャーファルが、王を殺そうなどと・・・・
ヤムライハはシンドバッド王に短剣を向けて鋭い眼光で睨みつけるジャーファルが信じられなかった。
しかし、目の前に起きている事は現実で・・・
「俺を殺したいか?ジャーファル。」
緊迫した空気の中、シンドバッドの優しい声が聞こえてくる。
短剣を向けられているシンドバッド自らが、その短剣に向かって両手を広げ歩み寄って行く。
武器など持たない丸腰で、攻撃の意志など見せないまま無防備にジャーファルに歩み寄る。
『ジャーファル』、とだけ名を呼びながら。
「ジャーファル、ほら、ここだ。俺を殺すなら心臓を狙え。一発でしとめろよ?でないと俺はしぶといんだ・・・知ってるだろ?お前なら。」
「王様、何を言ってるんです!?危険です!やめて!!」
刃物を構え、殺意むき出しの相手に両手を広げて近寄るなど、自殺行為だ。
止めてと悲痛な叫び声を上げるヤムライハの言葉を無視して、シンドバッドはジャーファルへと手を伸ばす。
そして・・・・
「ジャーファル・・・お前になら、殺されてもいいよ。」
優しい優しい声。
それはルフの乱れによる幻聴などではない。
好きで、好きで、大好きで。
決して口に出してはいけないけれど・・・
愛して止まない人の声。
「シン・・・」
名前を呼んだ途端、ふわり、と体が軽くなった。
長い指が髪の間をすり抜け、頬を撫でてくれる。
さっきまでの息苦しさが消え去って、呼吸が楽になっていく。
温かい。
温かくて。
太陽みたいに、包んでくれるぬくもり。
このぬくもりを手放すなんて出来ない。
ずっと、ずっと、こうしていて。
ずっと、ずっと、側にいて。
木漏れ日の中にでもいるような優しいぬくもりを感じて、ジャーファルの意識はそこで途絶えた―――。
―――夢を見て、目が覚める。
目蓋を開いた目に映るのは、柔らかな布が幾つも重ねられたベッドの周りを覆う豪華な天蓋だった。
自分のベッドに掛けられている天蓋とは違う豪華さに『ああ、ここはシンドバッド王のベッドだ』などとぼんやり思う。
次いで、ジャーファルは『綺麗だな』とか『このベッド、ふかふかだな』などとのんびりベッドの感触を堪能する。
「目、覚めたか?」
眠りから覚めたばかりのぼやける視界に、今度はシンドバッドの顔が飛び込んでくる。
気だるさの残る体を叱咤して上半身だけ起き上がったジャーファルはベッドの上に座った。
シーツの上に足を滑らせた時、足首にチリッとした痛みが走る。
―――そうだ、私は『あの森』で怪我をした。
きっちりと包帯が巻かれて手当てされている足を腰の下に折り曲げ、正座の姿勢を取ると、ジャーファルはスッと手をついて頭を下げる。
「・・・王よ。この度のご無礼をどうぞお許し下さい。」
ベッドの上で深々と頭を下げたジャーファルを見て、シンドバッドは溜息を一つ。
「あの森での事、覚えていたか・・・」
「はい。うつつでは御座いますが、貴方様に刃を向けた非道だけは忘れておりません。」
「あれは森の見せた幻覚で、お前は惑わされただけだ。謝る必要は無い。」
「いいえ。例え何者かに操られていたとしても、貴方様の命を狙った事実に違いはありません。」
ジャーファルが目を覚ませば、このような押し問答が始まるだろうと予測していたものの、ジャーファルの頑なな態度には呆れるばかりだ。
どうすれば、この融通の利かない頑固な家臣を言いくるめられるだろうかと思案していたシンドバッドだったが、ジャーファルが自分の喉に眷属器の先を宛がうのを見て考えるのを止めた。
「馬鹿か!?おまえ・・・眷属器で何するつもりだ!?」
いつも腕に巻きつけて装着している眷属器を首に押し付け、今にも自殺する勢いのジャーファルの腕を掴んで刃から引き離す。
「離して下さい!何時、またシン様を襲うかも知れないのなら、今すぐここで命を絶ちます!」
「何言ってんだよ!?正気に戻れっ、ジャーファル!」
まさか自害するまで思い詰めると予想していなかったシンドバッドは焦りの色も露にしたままジャーファルを怒鳴りつけた。
あの重い眷属器を自在に操れる力が何処にあるのかと思わせるほどの細い腕を掴んで力の限り握り締めれば、ジャーファルは痛みに顔を歪めた。
そして、唸り声を上げてから、観念したようにポトリ、と眷属器を落とす。
「・・・落ち着いたか?」
シーツに落とされた眷属器を見て、シンドバッドが安堵の溜息を付く。
これで温かいミルクでも飲ませて、もう一眠りさせれば大丈夫だろう。
そう思っていた。
だが、その安堵も束の間・・・・
「うっ・・・ひっ、ひっく!」
「へ?え?えぇ?泣いてるのか、ジャーファル?」
自殺騒ぎが治まったと思えば、次はいきなりの号泣。
みるみるうちにわんわんと声を上げて泣きじゃくるジャーファルにシンドバッドもお手上げだ。
先程とはまた違う状態に、またしても狼狽するシンドバッド。
どうしても泣き止みそうにないジャーファルの背中をさすり、頭を撫でている内に、ジャーファルは泣き声の混じる声で『怖い』と言い出す。
「怖い?何が?」
幼い子供をあやすみたいに『よしよし』と肩を抱き寄せ、うつむいたままの額に軽くキスを落としてみる。
「貴方・・を、殺そうとした・・・自分が、こわ・・・・いっ・・・私はあの時、暗殺組織から抜け出せたと思ってた・・・でも、でも・・・本当はまだ組織に捕らえられたままで・・・王となった貴方を殺すように仕向けられていたとしたら・・・」
幼い頃、ジャーファルは暗殺集団の中にいて、シンドバッドを暗殺の標的として襲った。
それが、奇しくも二人の出会いであり、ジャーファルが暗殺組織から抜け出すきっかけにもなった。
もちろん、今に至るまでの道のりは決して平坦ではなかったが、数々の苦労の末、こうして無事に過ごせている。
それなのに・・・・
「シン・・・シン・・・怖い、怖いです・・・もし、何かの暗示が掛けられていたとしたら?組織は私を逃がしたのではなく、私を泳がせておいて時がくれば貴方を殺すよう命令するつもりじゃないかって・・・」
恐怖と嗚咽で肩を震わせているジャーファルにシンドバッドの言葉は届いていない様子だった。
怖い怖いと言い続けては泣き崩れるジャーファルにシンドバッドは根気強く語りかけ落ち着かせようと試みた。
心の傷の癒えないまま怯えるジャーファルは、出会った頃の幼いあの日の子供と重なって見える。
「ジャーファル・・・それなら、俺を殺せばいい。それでお前が苦しむというのなら、そのかわりに俺がお前を殺そう。」
「シン?」
殺してしまった罪に心を砕かれるのなら、自分が息絶える瞬間の全てを使って、お前を殺そう。
「殺し合うのなら、お互いに恨みっこ無しだと思わないか?」
涙でグチャグチャに濡れたジャーファルの頬を両手で包み込んで上を向かせたシンドバッドは『名案だろ?』などと言って笑っている。
「だから、さ・・・ジャーファル」
上を向かされ晒された額に、またひとつ、くちづけが落とされた。
「俺と死ぬために・・・」
チュッ、と音が鳴る。
今度は頬にされるキス。
「・・・生きろ。」
最後のキスは、唇へ。
想いが重なる。
ぬくもりに包まれる。
―――俺と共に死ぬために生きろ。
ほら、もう、怖くない。
それは、優しい命令。
fin