君へ捧げる(作品)

□薔薇の下で
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かたん、と本棚に本が吸い込まれていく音がやけに大きく響いた。窓の外では、灰色の雲の下、運動部が走り回っている。寒空の下、ふぁいっ、おーと強いかけ声も忘れない。あの中に、平助はいるのだろうか。幼馴染の元気さを思って、雪村千鶴はくすくすと笑声を漏らした。

薄桜学園特別校舎の端にぽつんとある第一図書室は、広い学園内に三つある図書室の中で一番古い部屋だ。それ故、滅多に人が訪れることはない代わり、世間では既に絶版になってしまった本や、まれに見つかる国宝級の本など、珍しい、の一言だけではすまない書籍がおいてあることがある。千鶴は、そんな中で担任に頼まれた本を棚に戻す作業を黙々と行っていた。悪いが頼む、と頭を下げられてしまえば、千鶴に拒否権はない。もともと用事もなかったので素直に引き受けたが、まず棚の数が尋常ではないことを忘れていた。

ふと目をやったカウンターには、ぽっかりと空間があった。係は決まっているはずなのだが、みな面倒くさがってこの第一図書室に来ようとしないのだ。仕方ない、と息を吐き、カウンターのカード整理をしたのはまだ十分ほど前の話だ。千鶴はまた目の前の本棚に手を伸ばす。脚立の上からでも、千鶴の身長では背伸びをしなければ上まで手が届かない。五冊ほど抜き取り、手元の本の分類と照らし合わせ、目的とは違うと判断すれば戻す。これで、もう二十ほど棚をあさっただろうか。それでもまだ半分も戻せていない。
確かにここには珍しい書籍がある古い場所だ。そのため、書籍数も尋常なほど多い。まだまだ先の遠い返却活動に、千鶴は肩をすくめる。

こと、とふいに後ろから物音が聞こえた。思わず振り向くが、誰もいない。安堵して息を吐くが、すると今度は先ほどより近くから何かが倒れる大きな音がした。びくり、と体が脚立の上で震えた。


「…………よ!」

唐突に女性の金切り声が耳を突き抜けた。きんと耳の奥に痛みが走る。耳を押さえながら、ほんの少しだけ体を棚の方へ寄せた。覗き見るように辺りを見回す。
ふ、と視界の横を何かが横切った。つられるように視線を移すと、ピンクのハイヒールが見えた。なお、ここは土足厳禁だ。
何か横切ったのが見えたのは、ほんの隙間から見えた向こう側のようだった。


「私のどこがいけないって言うの!? 何で、急に別れるなんて……っ!」

耳をその隙間に近づけると、急に声がクリアになった。おそるおそる本棚の本をもう数冊抜き取り、少し広がった隙間から向こう側をのぞく。
産休に入った英語教師の代わりとして当てられた女性がくるりと巻かれた髪を振り乱し、泣いていた。頬から落ちる雫も彼女の美しさを際立たせるようだが、今の彼女は美しいとは言い難い姿だった。


「じゃあ何、私のこと、嫌いになったの!?」

叫ばん限りに声を張り上げて、彼女は彼女の向こう側に立つ男性に問いかける。しかし、相手は女性の影になって見えない。


「私から付き合ってって、確かに言ったわ。でも、あなただって満更じゃなかったでしょ? 私みたいな彼女ができて、嬉しかったんでしょう!」

もう、彼女は発狂していると言ってもおかしくないほどの取り乱しようだった。彼女のピンヒールがこつりと鳴るたびに、千鶴は恐怖に体を震わせた。


「……そんな醜い心じゃなかったら、好きになってたかもな」

低く少し掠れた声が聞こえ、は、と千鶴は息を呑んだ。聞き覚えのある声だったからだ。慌てて口を自らの手で塞ぐ。


「醜い……ですって? この私の何処が醜いって言うのよ!」
「自らを美しいと自賛し、それを相手に押し付けて優越感を得る。全部自己満足のためだろ」
「っ、あなたはそう思ってなかったって言うの……!」

男性の零れ落ちた溜息が、千鶴の耳に届いた。千鶴は震えが止まらない手を強く握り締めた。ここから出て行かなければ、と思うたび、千鶴の足は氷のように動かなくなる。


「俺は……、もっとキレイな心を持った子を、知ってるからな」

今度は女性が息を呑む番だった。しばしの沈黙の後、乾いた音が図書室の静寂を壊した。それに反応して千鶴の体は大きく揺らぐ。


「さよなら……っ!」

かつかつかつ、と本の間からのぞくヒールが遠ざかり、図書室の扉が勢いよく閉められる。そうしてようやく千鶴の体は恐怖から解放された。


「早く行か……なきゃ」

口の中で呟くようにして自らを奮い立たせ、脚立の段に足をかける。すると、すっかり硬直していた体は上手く動かなくて、バランスを崩し、次の瞬間千鶴の体は段の外へ傾いでいた。


「――――……ゃあ!」

衝撃を覚悟し、目を硬く閉じる。だだんっ、と千鶴の後を追うように棚から落ちた幾冊もの本が、床を叩く音が響き渡った。

しかし、どれほど待ってもゆっくりと意識を戻しても、千鶴の体に異常はない。幾度か瞬いて、首を傾げる。


「…………ってェ……」

だが、体の下からもれ出るような声が聞こえ、思わず千鶴は飛び退った。落ちた側と反対側の棚に背が付き、視線を上げると、そこには頭を押さえ天井を見上げている、先ほどの声の主がいた。


「……原田先生!」

よろめく足を叱咤して駆け寄り、体を起こす。彼は軽く頭を振って、そして千鶴を見つめた。


「怪我、ねぇな?」
「ごめ、ごめんなさい、先生頭……」
「大したこと、ねぇよ、そんな泣きそうな顔すんな」

掠れた声は、先ほどよりも近くにある。千鶴は彼が打ったと思われる部分にそっと手を当てた。顔をしかめる彼に、自分も泣きそうになった。


「ごめんなさい……っ」
「謝んなって。もともと俺たちが邪魔しちまったんだから」

勢いづけて棚に手をつき立ち上がる彼、千鶴の一つ上、三年団教師である原田左之助は、困ったように笑った。聞いてたんだろ? と肩をすくめる彼に、千鶴は小さく頷く。


「知ってたん、ですか?」
「お前隠れるの下手すぎ。本の影からお前のポニーテール揺れてんの見えてたんだよ」

原田は千鶴のポニーテールを指差した。千鶴は自分が覗いていたことがばれていたのだと知ると、赤面する。そのまま俯き頬を押さえて、見えないように眉を下げた。つと、ふわふわと頭を撫でられる感触に、千鶴は原田を見上げた。
彼は、苦笑しながら千鶴の頭をそっと梳く。するりと指の先から逃げてゆくさらさらの髪に、原田は心の中で感嘆する。千鶴も自然と柔らかく微笑んだ。


「悪かったな、変なとこ見せて。あいつを傷つけたのは俺だから、後で変な目で見てやらないでくれな」

しばらく考えを巡らせ、あいつ、とはあの女性のことだと分かる。千鶴は安心させるように笑った。


「大丈夫です。絶対、誰にも言いません」
「そうやって笑ってるほうが、お前には似合ってる」

くす、とどこかの意地悪な先輩のように笑みを漏らす原田に、千鶴は違う意味で顔を赤らめることになった。


「……もう、からかわないでください」
「からかってねぇよ。本当に似合ってるしな」

原田の手が千鶴の髪から離れる。千鶴は、原だの手が離れていくことに、どうしてかひどく淋しくなった。


「そういうことで、ここで見たことは内緒な?」

しぃ、と口元に人差し指を当てる原田に、千鶴も同じように指を唇に添えて返す。彼が満足そうに顔を綻ばせるのを見て、千鶴は胸の奥が暖かくなるのを感じた。


  * * * * *


図書室の奥、大きく広がる窓の前。本の数には相当しない、申し訳程度に置かれている椅子に二人は肩を並べて座っていた。千鶴の手にはホットピーチティー、原田の手にはブラックコーヒーがある。
奢りだ、と渡され、千鶴は素直に受け取った。本当は未だ恐怖で微かに震えている千鶴を悟られることのないように気遣う、その優しさが嬉しかった。
窓にもたれると、外気ですっかり冷えた硝子の冷たさに背中があわ立つ。だが、じんわりと手から広がる温もりがそれを幾分か感じなくさせた。


「ところで、お前なんでこんなところに居たんだ?」

ふと、原田が素朴な疑問を持ちかける。口を開いたが、今までの努力を思いだされ、溜息が零れた。


「本の返却を頼まれたんです」
「その本、まさか全部か?」

カウンターの上に積まれた二十冊近い本を見て、原田の頬が引きつった。頼んだのは誰か知らないが、鬼だ。


「これでも、三分の一は返しました。だいぶ慣れてきたとこなんですけど」

千鶴の訴えを聞いた原田の口は開いたまま塞がらない。これで三分の一減っている!?


「あ、いいんです別に。私、ここ好きですから、久しぶりに長くいられる口実もできたし」

今にも飛び出して行きかねないほどに哀れみの表情を浮かべる原田に、千鶴はあわてて付け加えた。原田はしばらく躊躇っていたものの、おとなしく千鶴の隣にもう一度落ち着いた。


「大変、だったろ?」
「運ぶのに少し本が重かったくらいで、大丈夫です」
「カウンターの仕事も、やってたんだろ。お前のことだから」
「私が出来ることで、お役に立つならそんなの、構いません」
「そうか」

文句の一つも言おうとしない千鶴が、痛々しい。先ほど飲み物を押し付けたときに触れた手の、なんと冷たかったことか。
原田はふと上着のポケットをまさぐる。ごそごそと布の擦れる音に、千鶴も遅れて彼を見る。首を傾げると、原田はあった、と呟いた。


「ほら、やるよ」

原田の手にちんまりと乗っていたのは、きらきらと輝く金平糖の袋だった。千鶴の手に納まってしまいそうなほど小さな包みだったが、千鶴はそれに目を輝かせた。目の高さまで掲げると、色とりどりの金平糖が、背中越しの光に当たって煌く。


「これっ、いいんですか?」
「図書室のカウンター仕事、それから本返却のご褒美と、」

指折り数えていた原田は、そこでいったん口を閉ざす。そしてまたあの困ったような笑みを浮かべて、言った。


「それから、さっきのことの口止め料、ってか?」

どく、と千鶴の心臓が大きく脈打った。

そうだった、彼は先ほどまであの女性とそういう関係にあったのだ。自分はそれをたまたま目撃して、彼にとっては少し厄介な存在だというだけなのだ。
だから、こんなに彼は優しくしてくれるのだ。


「そう、ですね」

震える声を押し殺し、千鶴は包みを受け取る。しゃらと金平糖が袋の中で音を立てた。金平糖の丸い角さえも、ちくちくと手を刺しているような気がした。
別にいいじゃないか。千鶴は薄く息を吸いながら、思う。彼がここから出て言ってしまえば、自分とは何の関係も無くなる。ただの一生徒と教師。自分じゃなくても、きっと彼はこんな風に優しくするに違いない。
きゅ、と唇をかんで、千鶴は金平糖の包みを握る。


「これ、食べてもいいですか?」
「今か?」
「はい」

原田はしばし考え込むと、口角を緩めた。


「じゃあ、これも秘密ってことならいいだろ」

微笑む彼を千鶴は横目で見ながら、袋の口を開いた。甘い砂糖の香りと、果汁入りなのか果物の香り。袋の中に指を差し込み、一つだけつまむ。そのまま何も見ずに口に入れた。


「なに味だったんだ?」

ころころと口の中で転がせば、角が取れて丸みを帯びる。千鶴は原田の問いに答えることなく、囁くように逆に問い返した。


「先生、キレイな心を持ってる子って、どんな子ですか」
「はぁ?」
「さっき、先生言ってたじゃないですか。キレイな心の子を知ってるから……って」

かり、と金平糖が歯に当たって砕けた。味わう暇もなく壊れてしまった金平糖が、急に憎らしくなる。まるで、今の自分たちの時間も、こんな風に壊れてしまうということを、暗示しているようで。


「あぁ、言ったな」
「心がキレイだから、きっとすごく優しくていい子なんでしょう?」
「……そうだな。すごく、」

聞いたことのない彼の声色に、千鶴は息が止まったような気がした。慈しむような、優しい声。こわくて、彼の顔を見ることができない。


「人を憎んだりすることをしなくて、優しくて、いつも笑ってて」

自分から切り出した話なのに、なのに、やだ、聞きたくない。
心の中で、我が儘に千鶴は叫ぶ。


「自分が役に立てるなら、って自分を犠牲にして、人を責めることだってしない」

どうして、どうして自分はこんな感情を向けているのだろう。聞きたくない、と叫びそうになるのを抑えて、彼に背を向けて千鶴は立ち上がる。


「ありがとうございました。もう……いいです」
「疑ったりしないし、何かあったらまず自分を責めるし」
「先生、もういいです……」
「でも、自分のことは顧みなくて、いつでも人のため」
「やめて……!」

手の中の金平糖が、しゃりしゃりと悲鳴を上げる。握り締めた手の中で、潰されるまであと少し。
千鶴の視界が歪む。だが、俯いたままだから気付かない。原田が音もなく立ち上がる。そしてそのまま俯く千鶴を後ろから抱きしめる。


「やだっ、触らないで……!」
「全部、どうせ秘密になるんだろ?」

いつもどおりの原田の軽い口調のはずなのに、辛そうに聞こえるのは何故だろう。


「キレイな心、持ってる子のこと、教えてやろうか」

息が震えて、声にならない。千鶴は微かに首を横に振った。耳にかかる吐息が、ひどく近い。
熱い、熱い。


「……嫌だっつっても、教えてやるよ」

強く振り払おうとして、そしてその手さえ押さえられて。千鶴を自分のほうに向けたかと思うと、その細い顎をそっと仰向けた。潤んだ瞳は今にも涙が零れ落ちてしまいそうで。

刹那、熱くからからに乾いた唇が、千鶴の唇に降りてきた。

苦い、コーヒーの香りがふわりと香って、思わず目を閉じる。一瞬だったのか、それとももっと長かったのかは分からない。


「さっきの、苺味か」

名残惜しそうにゆっくりと離れた原田は、少し前の千鶴のように、千鶴の唇に自身の人差し指を添えた。そして、その指を今度は彼の唇に寄せて。


「――秘密、だ、千鶴」

泣きそうな千鶴の手から、数多の星が零れ落ちた。




   秘密の花園を見つけた
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