fkmt短編2

□蜘蛛とインテグラル
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※蜘蛛が出てきます。苦手な方はご注意を
※夢と言って良いのか分からない





100円ショップで購入した筆箱から愛用の消しゴムを取り出そうと左手を伸ばし、視線を僅かにずらした。しかし、私はその手を僅かな時間ながら止める事になる。乱雑にはみ出した数本の蛍光ペンの隙間に、ひっそりと、閉じこめられるようにあるものを発見したのだ。

蜘蛛がいた。

言うほどの大きさでもない。米粒のような大きさの蜘蛛だった。私の机の上に侵入しているくせして、手足をすくめてやけに臆病だ。私は今が授業中である事を頭から追い出し、しばらくそれを観察した。

蜘蛛は白かった。机の表面と同じ色をしていたため、ふとした瞬間に見えなくなる。本当、どうしてこんな所まで来たのやら。
私は虫が怖いわけでもないし、彼らに対して気持ち悪いと思う事もない。ただ、本当に何故かは分からないが、その蜘蛛はとても美しく思えた。いや、蜘蛛が美しい訳ではないのだろう。先ほど蜘蛛を発見したときの、あの景色が――極彩色の景色に埋まる一匹の透明なその蜘蛛が、隅にちらりと映る真っ白なノートが――美しかったのだ。瞬きをすれば瞼の裏に唐突に現れる、映画を一時停止した時のようなそれ。この美しいと思う気持ちは一体どこから湧いてくるのか、誰か教えて欲しい。

蜘蛛は奮い立ったように八本の腕を伸ばした。米粒みたいな大きさは、変わらない。
息を一つ吹きかけてやればすぐに机の下に落ちるだろうその貧弱な生物は、少しずつ動き出す。人間の足は二本しかないのに、何だかずるいと思う。不思議とその蜘蛛を殺してしまおうという気持ちは起きなかった。私の指は、餞別、とでもいうように蛍光ペンの柵を崩した。

頬杖を突きながら蜘蛛の旅路を見守った。私の机の左端から出発したその蜘蛛は、左隣の机の右端へと移動する。大陸横断おめでとう、なんて内心盛り上がり、ふと、そこの住人を思い出した。

宇海零だ。大きな二つの目で、黒板を眺めている。その手は他の生徒達よりも緩慢な動作で、ノートに数式を綴っていた。効率化だろうか。頭がいい人が何でもできてしまう理由は、きっとそこにあるのだと思う。隣の優等生を思い出した私は、何だか気恥ずかしくなって視線を戻した。
私が蜘蛛を発見した時に始まった問題は、まだ終わっていない。証明問題ってどうにも苦手だ。他の問題もそうに変わりないのだが、この試されている感じが、見下されている感じが、苦手なのだ。誰かが言っていたっけ、私たち人間は、神様の手帳を覗かせて貰っているだけだ、みたいな事。じゃあ、それを見せて貰ったごく一部の人間が考え出した発見を理解できないひとたちはどうなるんだろう。例えば、フェルマーの最終定理に四苦八苦している数学研究者たちとか。

理解できない苛立ちを不当な八つ当たりに変えて、私は一人むくれた。紙の上をシャープペンシルが滑る音、教師がチョークを黒板に叩きつける音、全てが煩わしい。私は何をしているんだ。

そんな事を思っていて、聴覚が敏感になっていたのだろうか。一際異質なかん、という音に、私は意識の全てを持っていかれた。すぐ隣から聞こえた音だった。私の鼓膜を突き刺した音は、そのまま糸でも付いているかのように、私の頭を引きずった。顔を、隣の机に向ける。

蜘蛛がいた。
潰れた蜘蛛がいた。

少しの間、呼吸するのを忘れていた。宇海零の机の上で、蜘蛛は潰れていた。元の大きさが大きさだからか、グロテスクな雰囲気はない。私の瞼の裏に現れる景色が、すり替わった。
ぱきん、と軽い音をさせて、宇海零がシャープペンシルの先をへし折った。それは消しゴムのカスとともに、蜘蛛の死骸を机の下へと押し流す。

私の視線に気付いたらしい宇海零が、こちらを少し驚いたような目で一瞥してから、また、黒板に視線を戻した。
シャープペンシルの柄を唇に押し当てるのが癖みたいなものだと気付いたのはつい先日。今は、それがまるで私に“内緒”とでも言っているようで、私は思わず唾を飲んだ。ぞわりとした何かが、私の内側を蝕んだ。

虫も殺せないような顔をしているくせに。私は顔を伏せて、持ち上がりそうになる口角を押さえた。私が美しいと思った蜘蛛は、もう死んだ。あの景色も取り戻せない。しかし、それで構わない。
私は隣に息を潜めて座っているこの男の方が、よほど美しい事を知っている。

宇海零はあの蜘蛛を殺したシャープペンシルをゆったり持ち上げ、実に綺麗な記号をノートに綴った。成る程、彼はこの証明を今から積分で解くらしい。後で、どんな風にやったのか、聞いてみようと思う。

教師が黒板の右下に「終」と書き付ける。証明が終わった。



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