fkmt短編2

□兎が逃げた、野良猫は
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※若かりし沢田さん捏造



まず、溜め息が漏れた。

沢田は部屋の中央にあるソファに沈み込んだ。ちかちかと危なっかしい蛍光灯をぼんやり眺めながら、惰性で煙草を取り出して口にくわえる。ライターを探そうと思って、ふと、テーブルの上に灰皿がないことに気がついた。

「おい、灰皿……」

馬鹿だろうか、自分は。

かなり間抜けな姿だと分かっていても、動く気は起きない。結局火の点いていない煙草は、その役目を果たす事なくゴミ箱へ向かって放り投げられた。狙いは外れたようで、ころりと情けなく床に落ちる。ち、と舌打ちをして、沢田はソファに横たわった。

すると、ばたばたと慌ただしい足音が聞こえてくる。チャイムも鳴らさず、「入るぞ」という鋭い声とともに何かがリビングへ飛び込んできた。

「……よう」
「沢田、お前っ…」

女はノブに手を掛けたまま、きょろきょろと辺りを見渡した。視線はテーブルの上にある丸められた紙を捉える。早歩きで沢田に近付き、名前はくしゃりと握られた痕跡の残るそれを開くと、目を通した。面白いぐらいに表情が険悪なものになっていくので、沢田はついつい笑ってしまった。

「クク…逃げられちまった」
「……本当かよ…」
「それにしても情報が早いな…何かあったのか」
「電話が来たんだ」
「そうか、何か言ってたか」

名前はその紙をもう一度丸めて、ゴミ箱に捨てに行った。その近くに落ちている煙草に気付いたのか、目を細めながら拾い上げる。

「『ごめんなさい、あの人をよろしくお願いします』…だそうだ」
「そいつは本当か。てっきり恨み言の一つでも残っているのかと思ったぜ」

乾いた笑いを浮かべる男を一瞥し、名前は灰皿を探した。ガラス製のそれに先ほど拾ったものを押しつけると、テーブルの上に置く。こつ、と無機質な音がした。

「…吸って良いか」
「灰皿あるなら構わねえよ」
「そうか。あんたもどうだい」
「俺はいい」
「分かった」

紫煙をくゆらせながら、名前はソファの肘掛けに腰掛けた。灰を落とさないように気をつけながら、顔を腕で覆っている男を眺める。



公衆電話から組経由で名前の元に連絡が届いたのは1時間ほど前の事だった。声を聞けば誰かすぐに分かった。何せ、友人だったから。
「どうしたんだ」といつも通りの口調で尋ねるも、聞こえるのは涙ぐみ、細々とした情けない声で。「ごめんなさい」そう言った。心が寒くなった。後ろで小さな子供が「母ちゃん、父ちゃんは?」と言っているのが聞こえた。女の声は、それには何も返さなかった。「名前ちゃん、ごめんなさい、あの人を頼みます」それが最後の言葉だった。名前が声を荒げても、回線が切れてしまった以上独りよがりの虚しい叫びでしかない。舌打ちをして、既に帰路についていた沢田の後を追ったのだ。



嫌な予感は、当たっていた。

「名前……」
「なんだ」
「お前は、普段の俺の振る舞いを知っていただろう。どうだ、俺の事を殴りたいか」
「……殴らないよ。殴れない」

名前は垂れる横髪を耳に掛けた。

「そうか……それを聞いて安心したよ」
「あいつはカタギに限りなく近い女だった。あんたについて行けなくても、無理はない」
「くくく…お前が優しいとは、明日は槍でも降るかな」
「優しさなんかじゃない。事実を言っただけだ。だってあんたらは……」

あの時は笑っていたじゃないか、と。言いたかったが口をつぐんだ。きっと沢田も痛い程に分かっているだろうから、あえて言葉にするのも愚かしい。

そもそも、沢田の結婚の仲を取り持ったのは名前だった。友人だ、と紹介したその娘は、芯が通っているが、かといって頑固一徹なわけでもなく、それこそ、男の三歩後ろについて、男を立ててやれるような、見本のようにいい女だった。やくざのくせに温厚で人付き合いのいい沢田が、やけにどぎまぎして素っ気なく振る舞うものだから、名前は「何か粗相をしたかしら」と眉尻を下げる彼女の肩を叩き、苦笑いを浮かべたものだ。
名前が積極的に動いたのが功を奏し、二人は次第に、何の違和感もなく会うようになり、手をつなぐようになり、笑い合うようになった。結婚の報告をはにかみながらする二人を、心から祝福した。その頃になれば、さすがに諦めもついているというものだろう。

いつまでも彼ら二人が幸せであると信じて疑わなかったのに。
誰も悪くない。全員が優しい。やくざでありながら亭主関白にならない夫。彼を心から愛し、文句も言わずに支え続けた妻。沢田がもっと傍若無人だったなら、きっと彼女は逃げる事などできなかった。彼女がもっと我が儘だったならば、きっと不満を沢田にぶつけていた。二人はあまりにも優しすぎた。優しくないのは、自分だけだ。沢田ですら泣いていないのに、泣きそうになっているのだから。



「やっぱいけねえよなあ……もういい年した男のくせに、未だに映画の主人公になりたいとか思ってるんだぜ。そりゃああいつだって愛想尽かすさ」
「……やめるんだ、沢田。確証がある、わたしもきっと、その思い込みはやめられない」

あの、死地に赴く男を強気な言葉で見送り、その後崩れ落ちて、短刀で胸を突く美しい女が忘れられない。そんな事のできる男にいつか惚れて、幸せになるのだ、などという妄想が止まらない。

――妻に逃げられたばかりのこの男が、まさにそんな男であると、自分の心が囁くのが、はっきりと聞こえる。
友人に二度と会えないであろう事を悲しみ、崩れる結婚生活のきっかけを与えてしまった事をひたすら悔いる一方で、傷心中の男は扱いやすい、などとほくそ笑む何かがいる。

あんたは優しいから、すぐにいい女が現れるさ。なんて、自分らしい励ましの文句も口に出せないのだ。最低だ。最低の女だ。

ソファから離れて、灰皿に煙草を押しつける。もう随分と短くなってしまっていた。

これ以上ここにいてはいけないと思った。
あの人をよろしく頼む、その言葉を邪推してしまうのが恐ろしくて、考える事をやめた。

「もうあいつがいないんなら仕方ない。私は、今日は帰るよ」

明日はちゃんと出てこいよ、学生のような事を呟きながら、名前はもう一度部屋のノブに手を掛ける。

「名前」

沢田の声が背中を叩いた。振り返る勇気もなくて、そのまま素っ気なく聞こえるように返事をする。

「お前には、誰かいい男が現れたか」

俺達の面倒ばっか見て、自分の事は先送りだっただろう。

じわりと目頭が熱くなった。お前は優しすぎるんだ、叫びたいのを我慢して、血が滲むほどに唇を噛む。
死んでも、嗚咽を漏らすわけにはいかなかった。

「……うん、いるよ」
「そうか。そいつは良かった。幸せになれ……間違っても、俺達の二の舞にはなるなよ」

最後に与えられた奇跡的な機会を、きちんと生かせた事に心の底から安堵した。本当に最低な人間になってしまう事は何とか免れたと、笑わずにはいられなかった。

その後の事を、名前はよく覚えていない。ただ、組長に勧められている縁談は、相手がどんな男でも承諾してしまおうと固く決意した。後は野となれ山となれ。溢れる涙を止めようとも思わず、眠りこけた住宅街を一人歩き続けていた。



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