fkmt短編2
□惜しからざりし命さへ
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「馬鹿だねえ」
ぴくり、と市川が動いたのを見計らって、名前はぽつりと呟いた。どうせ聞こえてなどいまい。鼓膜は片側が破れていると聞いた。
「名前……か?」
「そうだよ、私だよ。なんだなんだ、本当に見えてないじゃないか」
「笑えるだろう」
「馬鹿。ちっとも笑えやしないよ」
布団に横たわる男は口許を歪めて笑った。呑気なものだと名前は溜め息を吐く。五感の一つを失ったというのに、絶望はおろか、後悔すらしていないのだ。前々から感じていたこの男の狂気には、恐れを通り越して、いよいよ呆れるしかない。
男の顔には包帯が巻かれており、それは目にも及んでいた。こめかみの辺りには止血帯もつけられている。馬鹿、胸中でもう一度罵ってやった。
「……死んだらどうするつもりだったんだい」
「どうもせんよ、死ぬだけさ」
「あんた分かってる?もうなんにも見えないんだよ?」
「そうだな。しかし不思議だ。視力を失うというのは、真っ暗闇にいっちまうわけじゃなさそうだ。暗さすら認識できないらしい」
「……」
私すら見えないのか、なんて、当たり前の事を聞けるわけがない。なのに、聞いてみたい自分がいるのだ。馬鹿はどっちだ。
「名前」
市川が上体を起こし、頭を動かす。名前は吐き捨てるように「そっちじゃないよ」と言った。
「ああ、こっちか」
手探りで、男は名前の肩を撫でる。反対側の手はそうっと頬に触れて、今までの乱暴さとはかけ離れたその感触に、名前はどうする事もできなくなった。
「名前。そういうわけだ。俺はもう目が見えん」
「……」
「くくっ…何泣いてんだよ」
「誰が泣くか」
「じゃあこいつは何だ」
頬に触れていた手は、雫を逆さになぞりながら離れていく。その指に舌を這わせ、口角を吊り上げながら「塩の味がするぞ」と茶化す。名前は逆らえなかった。既に、幾筋もの涙が頬を伝って畳に落ちている。
「なあ、俺の目にはなってくれないか」
「そいつは無理だね」
「そうか」
「ああ」
名前は市川の顔に触れた。包帯の上から、もう器官としては機能していない落ち窪んだ部分を指でなぞる。
「私が目になっちまったら、あんた、私の事見れないじゃないか」
触れているせいか否か、市川が驚いたのが伝わってきた。いい気味だと少し笑う。
「言うなあ、おい」
「違うのかい?」
「いや、正論さ。そいつは大問題だ」
「あんたには手があるだろ。いつも麻雀牌握っている器用な手が。それに、今は使えないが、耳だって付いてる」
それが目になればいい。代わりに、
「私はあんたの杖にでもなってやるさ」
「そんな事言うと、本当に手放さないぞ」
「構わないよ。ただし、大事に扱いな。長持ちするようにね」
「心配いらんよ、良いものを長く使うのが俺の主義だ」
喉をくつくつと震わせて、市川の手が名前の顔を探り始める。名前はその手をぱしりと掴んだ。
「何だ、せっかくそういう雰囲気なのに」
「悪いけどぎこちなくそういった事するあんたは見たくないのさ」
涙で若干ひりつく肌を強引に拭って、名前は掴んだ市川の手に指を絡め、握り直す。
「今日だけだよ」
空いた手で男の顎を掴むと、挑発的に笑みを浮かべるそれに噛み付いた。