fkmt短編2

□夢に遭いましょう
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あの男は笑っていた。
私が一度も見たことない顔だった。
ギャンブラーの男が見せる、あのにやりとした笑みでなくて、それはそれは純粋な。
その笑顔にどうしようもなく惹かれた。もっともっと見ていたいと思った。



気が付けば血を流す男が床に寝そべっていた。白い髪によく映える赤いそれ。何が起こったのか良く分からない。ただ彼の肩にはっきりと残る傷痕に、心がざらりと撫でられるような気がした。分かりやすく言えば、疼く。

「やめろ」

と、男はそう言った。その瞬間、私はやっと自分が右手に持っているものに気が付いた。
フルーツナイフだった。
ところどころに付着している赤いものは、彼の血で間違いないだろう。そして、私の腕。爪、指先、シャツの袖口。赤い。

私が、彼を斬ったのか。また、悪いものを見るなあと、ぼんやり思う。
試しに自分の腕に刃を当ててみたけれど、やはりというか、痛みは感じない。

いくら夢だとしても、私はなんてむごい事をしたんだろう。目頭が熱くなって、まもなくぽたりと雫が落ちた。それは赤い血に混じりきれずに浮いていた。何故私は泣いているんだろう。泣かなければいけないんだろう。

私は赤木の傷口に触れる。肩にある刀傷にも。

ねえ、赤木、頼むから笑ってくれ。あの時みたいに、あんな風に。純粋なあの笑いをもう一度私に向けて。



私は小さなガラス瓶を抱えていた。睡眠薬のラベルが張ってあるそれをテーブルの上に置くと、私は再び彼の元へ歩み寄ろうとした。

ふと、目元が痛い。
擦ってみると、尚更痛い。
どういう事だろうと鏡と向かい合えば、それはそれは酷い顔をしていた。涙の筋が重なって、少しかぶれているようで赤くなっている。こんなのに何が効くのかも分からないので、とりあえず冷水を汲んで目元を冷やす。

そういえば、夢の中でも泣いていた気がする。また悪い夢を見る。最近本当夢見が悪い。

リビングに戻ると、赤木はまだ寝ていた。それも床で。それも上半身裸で。
恥や外聞……は言うまでもなくないんだろうが、こう、もう少し良識ある行動をしてもらえないだろうか。

「赤木、どこで寝てるんだ」

声を掛けながら男の元へ。しかし、あるものに気付いてしまった瞬間、はたと足は止まった。
そう、剥き出しの上半身。と、その腕にある生傷。おかしい、こんなものあっただろうか。
おもりでも付いているんじゃないだろうかというぐらい、足が重い。辛うじて一歩踏み出すと、確かにそこには刀傷があって、腕には小さな刃物で斬りつけられたような生傷も。
それを見た瞬間、また心臓のあたりが圧迫されたように苦しくなった。

頭が痛くなってきつく目を閉じた。その時、はっきりと瞼の裏に見えたのは、この男。まだその腕からは糸のように血が流れ出ていた。
――そうだ、これは昨日見た夢だ。
そうだ、さっき睡眠薬を飲んで眠ったのだ。そうに違いない。だから、これは夢。昨日の続きの夢。
慌てて洗い場からフルーツナイフを持ってくる。少し冷静になって、念のためアルコールで消毒してみた。まあ別に夢だし、なんてことないだろうけど。

試しに腕を切ってみたけど、やはり痛くない。

「赤木、おはよう」

これでこの男が笑ってくれれば、どれだけいいか。
一思いにナイフを振り下ろした。



「赤木、赤木……好きなんだ、大好きなんだ」

私はお前が好きすぎてどうにかなりそうだ。だからあの笑顔を見せてくれ、早く、こんな悪夢から覚めて現実に戻りたい。
夢の中なら何を言っても平気だろう。普段は絶対言えない事を言ってしまおうと思った。

時々念のために自分を傷つけ、痛くない事を、これが現実ではないことを確認する。

「赤木、一緒にいて」

からりとナイフが落ちる。
所詮夢なのに、夢なのに、何でこんなに息が苦しいんだろう。身体が熱いんだろう。本当に死んでしまうそうだ。
こんなにも虚しいのは、何故だ。

「そんな傷作らないでくれ、あんたがどこかに行きそうで恐いんだ。だからずっといてくれ、一緒に過ごして。そうだ、せめて、せめて今できた傷が消えるまで。それまでは」
「……名前」

赤木が私の名前を呼んだ。それは蚊の鳴くような細々したものだった。当たり前だ、ここは夢なんだから。
それなのに、こんなにも些細な事に満たされて、私はまた涙を流した。それでもうれしい、少し笑う。
これからもずっとそうやって私の名前を呼んでくれたら、どんなに幸せだろうか。彼の首筋に顔を埋める。許せよ、どうせ夢なんだ。





がり、と固形物を噛み砕く音が聞こえた。また名前が睡眠薬を噛み砕いたのだろう。せめて水を飲め、と言った事もあるが、彼女は聞きやしなかった。当たり前と言えば当たり前だ。名前は“夢の中”にいるのだから、とことん興味がない。眠った先にある、きっと彼女にとって幸せな“現実”しか眼中にないのだ。その中でのみきっと名前は笑い、自分も笑っているのだろう。

いくらでも笑ってやるのに。名前が泣き笑いをやめて、あの少し癖のある満面の笑みを見せてくれたら、純粋に笑ってその肩を抱いてやるのに。疲弊した身体ではそれもできない。

「俺たちは、一体何をしてるんだろうな」

呟きは床に落ち、広がることもなく潰れて消えた。あまりにも馬鹿馬鹿しい。こんなにも単純な事が、どうしてできないのだろう。

この刀傷に勝りうる何かが欲しい、と、彼女は言った。笑ってしまう。本当に、欲しいのならば、もっと貪欲に、浅ましく、本気で請うてみろと。

その時、ぱちりと彼女の目が開く。床に転がる自分を見て、また切なそうに眉をひそめ、小さな声で呟いた。「おやすみ、赤木」と。



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