朝目を覚ましたら、天の助がナイフで自分の手首を切り落としていました。





「――って何やってんだ天の助っ!」




寝起きでボヤけていた頭も一瞬で冷えた。冷えきった。当たり前だ。親友が朝っぱらからナイフ握ってるんだから。しかも手首を切り落としていたんだから。焦らないわけが無い。血の気も普通に引くって。


俺は急いでベッドから這い出て天の助からナイフを没収した。ところてんだから切り落としたって平気なのは分かっているのだが、血が出ないのも分かっているのだが、見ていて気持ち良いものでは無い。



天の助の足元には切り落とした手首がある。体と分離したそれは、最早ただのところてんと化している。故に天の助の腕は左右非対称だ。アシンメトリーである。




ナイフを取り上げられてようやく俺が起きたことに気付いたのか、天の助は呑気に朝の挨拶をしてきやがった。




「あ、おはようヘッポコ丸」
「おはようじゃない! 朝から何やってんだよお前は!」
「いや、ただなんとなく」
「なんとなくって…お前なぁ…」




あまりに気の抜けた回答に俺は脱力する。天の助は俺のとった行動や態度の真意が本当に分かっていないようで、キョトンとして首を傾げている。ナイフを取り上げられた意味も、恐らく分かっていないんだろう。



落とされた手首――否、ただのところてん――を拾い上げ、天の助はそれを口に放り込んだ。モグモグ、ゴクン、と咀嚼されたところてん。それってカニバリズムじゃねぇの? なんて疑問はぶつけない。普段からコイツはところてん食べてるし、自分の体であろうがなんだろうが、ところてんであることに変わりはない。市販のところてん同様、好きに違いない。

だから食べることになんら文句は無い。そんなことよりも、俺は天の助が自分の手首を切り落としていた理由が知りたかった。当たり前だけど、普段の天の助はそんなことしない。死なないけど痛いから、刃物は嫌いだって前に天の助本人が言っていたのだ。なのに、何故…?




「なぁ天の助、正直に答えてくれ。なんでわざわざ、自分の体傷付けたりしたんだよ」
「…血が出ないかなぁと思って」
「は?」




ち? ち、って…血? 血液?



出ないかなぁって…おいおい。どんな思考回路を辿ってそんな疑問に落ち着いたんだよ。




「ほら、オレってところてんだろ? ボーボボとかヘッポコ丸とか、人間は傷付いたら絶対血が出るのに、オレはところてんだから出ないなぁってずっと思ってたんだ。んで、どうしたら出るかなぁって考えて、試しに手首を切ってみたんだよ」
「切ったっていうか、切り落としてんじゃねぇか…」
「うん。勢い余っちゃって。でも、やっぱり血は出なかった。オレの体はやっぱりところてんだよ」
「………」





どうしよう。全然理解出来ない。天の助の考えてること、実行したこと、全く俺には理解出来ない。話が右から左に流れていく感じだ。思考する前に、脳から聞いた内容が抜けていってしまうような感じだった。





ところてんだから、血が出ない。



人間だから、血が出る。






それは絶対で、当たり前の理論なのに…。





「…それってつまり、さ…天の助は、血を流せるようになりたいってこと? それとも…人間になりたいって、こと?」
「んー…どうなんだろうな。オレにもよく分からん」
「あ、そ…」





分からないままこんな暴挙に出るんじゃない。思わず出そうになった責め付けをグッと押し止めて、溜め息を一つ吐いた。きっとこれ以上の論争は無意味だろう。幸い天の助はところてんだから、これは致命傷では無い。外傷にすらならない。時間を置けば切り落とした手首も再生するだろうから、もうこの話を切り上げてしまおう。これ以上理由を掘り下げたって、得るものは無いだろうし。




「とにかく、もうこんなことするなよ。たとえお前がところてんだからって、自分で自分を傷付けてるとこなんて、俺は見たくないんだからな」




言って俺は踵を返す。しっかしこのナイフ、一体どこから持ってきたんだろう…。昨日は部屋にこんなの、無かったと思うんだけどなぁ…俺が認識してなかっただけなのかな? そう思いながらとりあえずキャビネットにナイフを仕舞おうとした時――




「なぁ、ヘッポコ丸」




天の助に呼ばれて、俺は振り向いて。




振り向いたら、すぐ側に天の助が居て。




その天の助が、俺の手からナイフを奪い取って。




俺の右手首を、そのナイフで引き裂いた。




「え……」




訳も分からず声を発したのと、血が溢れてくるのと、どちらが早かっただろう。ほんの僅かな差で、俺の声の方が早かっただろうか。…いや、そんなこと、どうでもいい。


遅れてやってきた手首への激痛と言い知れぬ熱さに、自分でも顔が歪むのが分かった。呻き声が洩れる。血を止めようと左手を強く押し付けるが、あまり意味は無いようで血は溢れるばかり。




「つっ……!」
「おー、手首って結構血が出るんだ。知らなかったー」
「なに、暢気なこと、言ってんだよ…!」
「手首切って自殺する奴の気持ちが分かるわ。これ放っておいたらすぐ死にそうじゃん」




今俺が死にそうだよバカ。痛みに呻く俺を後目に、天の助は興味深そうに溢れて零れる血液を眺めている。あんまりな態度に天の助を殴りたくなったけど、徐々に失われる血液のせいで力が入らない。立っているのもままならなくなって、ガクリとその場に崩れ落ちてしまった。


背後のキャビネットに背を預けて、襲い来る痛みに耐える俺。額に脂汗が滲む。涙が滲まない辺り、普段の修行によって痛みで反射的に涙が出ないようになっているのだろうか。どうでもいいけど。



しかしこのまま放置され続けると非常にまずい。いくら静脈を切ってもすぐには死なないとはいえ、痛みは絶えないし、この出血が続くのはよろしくない。本当に死んでしまう。




とりあえずシーツを裂いて止血帯を作ろうと一旦傷口から手を離す。相変わらず流れ続ける血。赤い赤い、人間の命の色。相変わらずそれを眺めるだけの天の助。オレンジ色の瞳が血を映す。チクショー、後でぶん殴ってやる。





傍らのベッドシーツに手を伸ばす。…しかし俺の手は――血に濡れた左手は、シーツを掴むことは無かった。



何故って? 天の助が俺の左手をガシッと掴んだからだよ。




「………」
「て、天の助…?」




左の掌から血の雫が滴って床に斑点を作る。右手首からの血も同様に斑点を作っている。貧血が起き始めたのか、頭がぼんやりとしてきた。だけど天の助はただ俺の手を見つめるばかり。何もしない。何もしてくれない。




「天の助…ちょっと、いい加減にしてくれって…止血しないと、ヤバい…」
「うん、そうみたいだな」





パッと天の助が左手を解放する。もう力なんて入らなくて、無気力に左手は床に落ちた。天の助の興味は右手首に移ったようで、血で彩られた右手首を凝視する。そして、両の手――いつの間にか欠けた手首が再生していた。完璧なシンメトリーだ――をその傷口に押し付けてきた。ひんやりとした感触が傷口を包む。溢れる血が天の助の手を浸食していく。天の助の水色の手に、錆色が広がっていく。




「てん、のすけ…?」
「こうやって、お前の血を吸い続けてたら、オレも血が出るようになるかな」
「……バーカ。むり、だよ…そんなの…」





たとえお前の全身を俺の血が浸食したって、お前は何も変わらないよ。お前がところてんであることは、どうやったって覆せないんだ。血の通わない、ところてん。それが天の助なんじゃないか。こんな狂態は無意味なんだよ。




そう――俺が流した血だって、無駄なんだ。







ボヤけてきた視界。どうやら意識を保つのも限界に達してしまったようだ。瞼が重い。いつ意識が飛んだっておかしくない。





あぁ、俺、このまま死ぬのかな…死因が親友に手首を切られたことによる失血死なんて、笑えねぇよなぁ。





「ダメなのかなぁ。無理なのかなぁ。どうなんだろうなぁ、ヘッポコ丸」




天の助が俺の手首を持ち上げるように添えた。それによって晒される傷口。その傷口を、天の助の舌が這った。人間よりも冷えた舌が傷口から溢れる血を舐め回す。傷口に舌が触れる度、ピリピリとした痛みが走る。その度に手首はピクリと跳ねるけど、天の助は血を舐めることを止めない。




天の助の舌が血を拭うのを、天の助の喉が血を飲み込む度に上下するのを、俺はただ黙って見ていた。振り払う気力も沸かないので、俺はされるがまま。走る痛みも、溢れ続ける血も、もう俺にはどうでも良かった。





ただ――そうやって俺の血を味わう天の助の表情は、恍惚としていたのだけは、しっかりと網膜に焼き付けた。



親友が――大好きな人が俺の血で喜んでいる。その様を、俺はただ眺めるだけしか出来ない。なんの感想も抱けないけど、もしかしたらこれで良いのかもしれない。薄れ始めた思考で、そんなことを考えた。





もう…ダメだ。生き延びるのはどうやら無理のようだ。このまま意識を飛ばしてしまえば、俺は二度と目覚めることは無いのだろう。生きることを諦めたくは無いけれど、諦めざるを得ない。





「て…ん、の…すけ…」




霞む視界。霞む意識。そんな中で、天の助を呼んだ。もう二度と目覚めることが無いのなら、遺言として一つだけ、聞いてほしいことがあったから。



聞こえなかったのか、はたまた聞こえないフリをしているのか、天の助は俺をチラリとも見ない。まぁ、良いや。これは俺の自己満足みたいなもんだから。聞いていなくても、別に良いや。




「おれ、さ…おまえが、ずっと……すきだっ、た、よ…」




ずっとずっと胸に秘めていた想い。こんな風に伝えるのは、もしかしたら卑怯だったかな…。




天の助の反応を見ることは叶わなかった。血を失いすぎたことによる意識混濁からか、伝えられたことによる安心感からか、俺の意識はプツリと途切れてしまったから。


















(予想に反して、俺はまた目覚めた。目覚めた場所は病院だった)



(傍らで天の助が泣いていたので、とりあえず思いっきりぶん殴ってやった)





























――――
夢と云う呪縛
Kagrra,/憶

[TOPへ]
[カスタマイズ]




©フォレストページ