ヘッポコ丸が目覚めたのは、邪王が目覚めてから更に二日が経過してからだった。



その日の見舞い当番だったビュティと天の助から連絡を受けた俺達は、すぐに病院へ駆け付けた。俺達が到着した時、ヘッポコ丸は医師に診断を受けてる最中だった。それが終わってから、俺達はヘッポコ丸に会った。




「御迷惑掛けてすみません。俺よく覚えてないんですけど、また俺無茶しちゃったんですよね? 今度は誰庇っちゃったんですか? ビュティ? 天の助? それとも破天荒? 首領パッチか? なんにしろ、ケガ無いみたいで良かった。それとも、ケガはしたけど俺が眠ってる間に治っちゃったのか? どっちにしても、無事で良かったよ」




ヘッポコ丸は、ひどく饒舌だった。普段の彼から連想出来ない程に、舌が達者に動いていた。二週間あまり昏睡状態だったとは思えない程に明快で、ハキハキと、自分が何も覚えていないということも、入院の原因は仲間を庇ったからだと暗に思い込んでいることも、雄弁に、誰にも口を挟む隙を与えなかった。笑顔で言い切ったヘッポコ丸に、しかし以前のような明るさは無かった。






その笑顔を見て、俺は邪王の言う通りになった…と思った。今のヘッポコ丸は、本当のヘッポコ丸じゃない。偽りの仮面を被った、拙いピエロ。虚構の意識。






普段のヘッポコ丸なら――こんなに朗らかに、謝罪の言葉を述べたりしない。自分の落ち度を、笑って認めたりなんてしない。





あくまで消極的で。



だけど仲間を守れた安堵に満ちた顔で。



「良かった」と、ただ一言だけ、空気に混じるほど小さく呟く。





それが、ヘッポコ丸なのだ――







邪王の話を聞き、それを事前に受け入れる覚悟を持っていた俺とボーボボは、異質なヘッポコ丸の態度を驚いた様子も無く眺めていた。何も知らない(敢えて教えなかった)面々は、やはり驚愕と戸惑いを隠せていないようだった。特に破天荒は、茫然自失としている。そして…。




「…な……何、言ってんだよ、ヘッポコ丸…」
「? なにが?」




震えた声で、天の助が問うた。体中に動揺が走っているのか、体が小刻みに震えている。その問いに、ヘッポコ丸は意味が――本当に意味が分からないように振る舞って、コテンと首を傾げた。



その反応を見て、天の助はヘッポコ丸に詰め寄って腕を掴んだ。無論、ヘッポコ丸が自ら切り刻んだ左腕を、だ。掴まれたことにより痛みが走ったのだろう、ヘッポコ丸は顔を歪めた。それを無視し、天の助が有らん限りの声で怒鳴る。





「や、いたっ…」
「ふざけんなよ! こんな傷、俺らを庇ったぐらいで出来るわけねぇだろ!? これはお前がやったんだよ! お前が、自分でっ…!!」
「やめろ天の助っ!」




暴走しだした天の助をボーボボが無理矢理押さえつけて引き剥がした。すぐにその頭を首領パッチが容赦なく殴った。なんと見事な連携プレーか。




「バッカ野郎! 起きたばっかの奴に、しかも記憶消えちまってる奴に何言ってんだよ!」
「けど首領パッチ! お前だっておかしいって思わないのか!? ヘッポコ丸が腕切り刻んだ理由を、なんで切り刻んだのかって理由を、忘れちまってんのはおかしいって思わないのかよっ!!」





天の助が縋るように声を張り上げる。橙色の瞳からはコントロール出来なかった涙がボロボロと零れていく。それに首領パッチが心動かされないわけが無かったのだが――首領パッチはそれを強靱に振り払い、また天の助の頭を強く殴った。




「忘れちまうのに理屈なんか必要ねぇよ! 疑問持つよりもよぉ、今は見守ってやらなきゃなんねぇ時だろうが! 辛い思いしたのはお前だけじゃねぇ! ヘッポコ丸が一番辛かったんだ!! …それにっ」




首領パッチは一旦言葉を区切り、ギロリと破天荒を睨みつけた。破天荒はその眼光にビクリと体を震わせたけれど、逸らすことはしなかった。逸らしたのは首領パッチ。逸らされた瞳は、頭に血が上った状態の天の助に再び向けられた。




「アイツだって、この十日あまりの間、苦しんでたんだよっ…!!」
「っ……!!」





その言葉は、決定打となって天の助の心を揺さぶった。天の助からダラリと四肢の力が抜かれ、涙に濡れた瞳がヘッポコ丸を見つめた。ボーボボが戒めを解くと、ペタリとその場に座り込んでしまった。



…天の助は、今どんな感情を抱いているのだろうか。







困惑。


憤懣。


悲壮。







様々な感情が、脳内をぐるぐると駆け回っていることだろう。破天荒への想いを消してほしいと願っていた天の助だが、こんな不本意な記憶消失では、彼の気は収まらないだろう。それ故の激昂で、慟哭で――





ヘッポコ丸はひどく怯えた目で、掴まれた腕を凝視している。目の前で繰り広げられた口論は、果たしてヘッポコ丸の耳に届いただろうか。聞こえないということは無かったかもしれないが…この動揺っぷりでは、それも怪しい。


遠目から、包帯に血が滲んでいるのが分かった。天の助が強く掴んだせいで、傷が開いてしまったのかもしれない。




「ヘッポコ丸、血が出ている。包帯を代えてもらおう」
「………いえ、大丈夫です」
「ダメだ。そのまま放置していては、傷の治りが…」
「いいからっ…! もう、帰ってくださいよっ…!!」




震えた声で、しかし強く、ヘッポコ丸は訴えた。俺達を――全てを拒絶するかのように、頭を抱えた。その体が小刻みに震えているのを見て、俺を含めた誰も、ヘッポコ丸に掛ける言葉が浮かばないようだった。誰もが困惑した表情で、ヘッポコ丸を見つめるばかりだった。





――一体どこまでが張り巡らせた意図なのか。もしかして、本当は演技ではないのだろうか。




しかし、先のヘッポコ丸の言動は、普段のヘッポコ丸からは有り得ないもの。だが、今のヘッポコ丸は、[素]であるような気がした。偽りの仮面が剥がれた…忘れたフリをすることを忘れた、ヘッポコ丸であるように、俺は思えた。






――――





結局その日は、ヘッポコ丸の望み通りに病室を後にした。側で我々の話を聞いていた医師は、「一時的な解離性健忘かもしれません」と話してくれた。腕を切る程に重いストレスが心因に負担を掛け、記憶を封じているのだろうというのが、医師の意見だった。




「ひょんなきっかけで記憶が戻ることもありますし、しばらく様子を見ましょう」




医師の判断は間違いでは無い。一時的なものと判断しうるなら、待つのが得策だろう。





しかし――あれはヘッポコ丸の偽演であると確信している俺達にとっては、その判断は良策だとは言えなかった。





「ソフトン」




宿に戻って、晩御飯の支度が整うまでは解散となった。解散の合図があったのと同時に、ボーボボが俺を呼んだ。十中八九、ヘッポコ丸のことだろうと詠んだ。

俺とボーボボは宿の一角にある談話室のようなところでコーヒーを買い、設けられていた椅子に腰を下ろした。





「ソフトンは、あれは演技だと思うか?」
「あぁ。ほぼ間違いなく演技だろう。しかし、あの様子では、いずれボロが出るだろうな」




答え、買ったコーヒーに口をつける。天の助に事実を突きつけられただけであんなに動揺していたんだ。長く騙し通すことは無理だろう。いずれ、ヘッポコ丸の虚勢は脆く崩れることだろう。――破天荒にケンカをふっかけた、あの時のように。




「天の助も、余計なことを言ってくれたもんだ」
「いや、寧ろあれで自分は何も忘れていないと認めてくれた方が、楽だったかもしれない…」




このまま忘れたフリを続けられれば、破天荒がせっかく固めた想いが揺らいでしまうかもしれない。忘れているならば、前のように犬猿の仲を演じれば良い。それだけで、これまで綴られてきた物語は無かったことにされる。破天荒には、格好の逃げ道が出来てしまったということだ。




しかしヘッポコ丸は何もかもを忘れているのでは無い。そういう風に取り繕っているだけだ。もしその事実に破天荒が気付いていないならば、『以前のように接すれば良い』という逃げ道に縋り、それに甘んじてしまう。固めた想いは、儚く霧散してしまうことだろう。






――気休めでは救われない。




――偽りだけでは終わらない。





ヘッポコ丸を問い詰め、無理矢理にでも虚勢を崩すべきだろうか。しかしそれではなんの解決にもならない、か…。




「…難しいものだな」
「そうだな」




やや冷めてしまったコーヒーを流し込んだ。そのコーヒーの苦さは、今の俺達を取り巻く状況を彷彿とさせているように思えた。





――――





あれから数日が経つが、ヘッポコ丸の態度にはなんの変化も無かった。俺にも、天の助にも、破天荒にも、ごく普通に接している。本当にこの数ヶ月のことをリセットしているような、当たり前に仲間に対する接し方だった。




「俺のせいだよなぁ…」




記憶喪失の原因は全て自分にあると決め付けて追い込んでいる破天荒と、




「絶対、ヘッポコ丸は嘘ついてる」




根拠は知らないが、嘘をついていると確信している天の助。






抱く思惟は違えど、焦燥は同等。そしてその焦燥感は俺にもある。まさかここまでボロを出さないとは…と、ヘッポコ丸の些かな演技力に感服してのことだった。破天荒は言わずもがなだが、ビュティや首領パッチ、田楽マンもヘッポコ丸の態度が嘘だとは欠片ほども疑っていないようだし、これからもきっと見破れないだろう。




ヘッポコ丸が以前同様の接し方を演じる中、破天荒と天の助はそうはいかないようで、なんともよそよそしいものになっている。




「二人共変なんですけど、ソフトンさんどうしてか知ってますか?」




自然にそう言い放つヘッポコ丸に、無理をしている様子は窺えない。ごく自然に、当たり前に、疑問を言い放つ。






「正直、参った…」




瓶牛乳をゴクリと煽って、ボーボボが言った。風呂上がりであるにもかかわらず形が一切崩れない彼のアフロに少し興味を抱いたが、今はそれどころではないのでグッと心の奥底に押し込んだ。




「ヘッポコ丸ってあんな奴だったか? いくら演技だとしても無情過ぎるだろ…」
「こうなってくると、『本当に記憶喪失である』という可能性も懸念しなければならないな」




もしかしたら、あの日医師が下した通り解離性健忘なのかもしれない。邪王の言葉を鵜呑みにしたのは間違いだったのだろうか…。しかし、もしそうなら俺が最初に抱いた違和感に説明がつかない。







邪王と話したい…『彼』から一言助言を乞うことが出来たなら、今の状況に何らかの変化を見出せる筈だ。




しかしあれっきり、邪王は俺達の前に姿を現さなかった。理由は分からない。『彼』自身がそれを拒んでいるのかもしれないし、ヘッポコ丸が『彼』を抑えつけているのかもしれない。どちらにしろ、邪王との会合は望めない。というか、いつも邪王からコンタクトを図ってきていた。コチラから邪王にコンタクトを取る方法なんて無いのではないだろうか…。




なんにしろ、無い物ねだりをしたところで今の状況は動かない。俺達が動かなければ、きっとこのあまりにも馬鹿げたサーカス染みた偽演はずっとずっと続けられることになる。




「…一度、カマを掛けてみるべきだろうな」
「カマ? どんなのだ?」
「…………目下考え中だ」
「ダメじゃねぇかー!!」




残っていた瓶牛乳の中身をぶっかけられたので、バビロンの裁きを与えておいた。





――――





なんの解決策も見いだせないまま、更に数日が経過した。今日の見舞い当番は俺と破天荒。破天荒は行くのを相当渋っていたけれど、首領パッチに後押しされて仕方無く共に病院までの道を歩んでいた。





「あーぁ…俺、いつまで待ってやればいいんだか…」
「たかが二週間で何を言ってるんだ。ヘッポコ丸は数ヶ月、お前の答えを待ってたんだぞ」




歎息するように吐き出された呟きに、自分でも分かるぐらい冷淡に破天荒に返した。何を弱気になっているんだ、と思う。先に言った通り、ヘッポコ丸が待ちぼうけを食らっていた期間は破天荒のそれとは比べ物にならないほどに長いのだ。そのほんの一部の時間で音を上げるなど、軟弱にも程がある。





「わーってるよ。冗談じゃねぇか」
「冗談に聞こえなかったのでな」
「…アンタってそんなに性格悪かったか?」
「失礼な奴だな」





ヘッポコ丸が記憶を失っていると未だ信じ切っている破天荒。こうして弱音を吐けど、想いに変化を見出さずいてくれて正直ホッとしたのだが、しかしそれもそろそろ限界だろう。決心は固いようだが、それが少しずつ揺らぎつつあるのが見て取れる。今の弱気な発言がその証拠だ。いよいよ誤魔化しも逆効果になってしまいそうだ。






しかしそれが分かっていながら、未だ幸策は浮かばない。自身の力不足に辟易しつつも、だが考察を諦めることはしなかった。







――そうだ。まだ諦めるわけにはいかない。思考の停止は、イコール『バッドエンドへの隘路』なのだ。



そんな結末なぞ、決して認めない。





「記憶…戻んねぇのかな…」
「…戻るさ。どんなに時間が掛かっても、取り戻してやるさ」
「……頼もしいのな」
「そうか?」
「まぁ、少なくとも俺よりはな」





俺は、そんな真っ直ぐでお綺麗な希望は抱けないんでね。






破天荒は皮肉っぽく――自虐的にそう言って、欠伸を一つ零した。その言葉は、既に全てを諦めているということを暗示しているように思え、俺は自身の顔が僅かに歪んだのが嫌でも分かった。





破天荒の表情は読み取れない。苦痛に歪んでるわけでも、絶望に悲観しているわけでも、諦念に重んじているわけでもない。飄々としたポーカーフェイス。故に読めない、破天荒の深層心理。その本音。





「…どういう意味だ?」
「俺の心が折れそうって意味」
「…………」
「冗談だよ」
「……冗談なら良いんだがな」
「だーいじょーぶ。これでも俺、猪突猛進タイプだから」
「そうは見えないがな」
「ま、そこんとこはご自由に」




破天荒はそれっきり口を閉じてしまい、俺も深く探ることを憚られてなにも聞けなかった。







…そろそろ、潮時か。






これ以上真実をひた隠しにしていては、暗礁に乗り上げてしまうのは見てとれた。破天荒が(本人曰わく)猪突猛進タイプであろうと、僅かな希望に縋り付いて妄信し続ける程甘くは無いだろう。本当にこのままでは、何もかもが無に帰す事になりかねない。





――ヘッポコ丸の嘘を暴く時が、来たか。







病院に行き着くまでの数十分の道程の中、俺達は互いに何も切り出すことなくただ静かに歩を進めた。俺だけが、胸中に蟠りを抱えて。





















病室に行くとヘッポコ丸は居なかった。まだ整えられていない、乱れたベッドに残されていたのは微かな温もりと、小さく白い置き手紙だった。





『屋上で待ってます』





簡素な一文。自分の名前も、誰に向けたものかすらも書かれていないそれを読んで俺達は両々首を傾げた。文字の癖からして、これを書いたのはヘッポコ丸なのであろうが、このようにどこかに呼び出されるケースは今まで無かったので、互いに少々戸惑っていた。




「どうする?」
「どうするも何も、行かなきゃ意味ねぇじゃねぇか」
「…そうだな」





ということで、俺達はその呼び出しに応じ、病室を出て早足に屋上へ向かった。





――――






屋上にはヘッポコ丸一人しか居なかった。犇めくように干された真っ白なシーツが風に遊ばれゆらゆらと揺れている。そして自殺防止用であろうとても高く設計されたフェンス。ヘッポコ丸はその側で、空を見上げていたようだ。錆び付いた扉が開く音に気付き、すぐに空から視線を外したけれど。






俺と破天荒の姿をその視界に収め、ヘッポコ丸は僅かに顔を歪ませた。待ち人の当てが外れたのか、ただ単に――破天荒が居ることに、何か思う所があったのか。



しかしすぐ普段通りに取り繕い、ヘッポコ丸は小さく笑って「こんにちは」と俺達を迎えた。





「珍しいな、お前がこういう風に呼び出すなんて」
「そうですか? …あぁ、でもそうなんですかね。やっぱり慣れないことはしない方が良いですね。やはりそれは奇異に映りますからね」
「……?」
「ずっと、考えていたことがあったんです」





フェンスに背を預け、ヘッポコ丸は淡々と語り始めた。





「過去の俺と、現在の俺と、未来の俺と――どの『俺』が本物なのかって。自分ではもう、分からなくなっちゃいました。強くありたいと願ったのは過去の俺で、強くいられないと痛感したのは今の俺で、強くあることを諦めるのは未来の俺で。そうなるまでの過程に…今、置かれているんですよ。それが現在の『俺』なんだと、思うんです」




紡がれた言葉はあまりに深く、恣意的な物とは言えなかった。あまりに茫洋で、要領を得ないものだった。隣で破天荒が怪訝そうに眉を顰めているし、俺も俺で疑問を抱くことしか出来ない。そんな俺達の様子を見て、ヘッポコ丸は失笑した。





「そう、暴かれているのなら、素直に認めていれば良かったんです。同じ『俺』でも、過去の俺ならこんな判断は下さなかったでしょう。未来の俺ならもっと良行に事を運んだでしょう。しかし現在の俺はそうしなかった。出来なかった。それは俺が未熟だからで、とても弱かったからで、愚直だったからです」
「…………」
「もう――終わらせなければ、ならないんです」




手の平で包み込まれた、傷だらけの左腕。自傷の痕跡を如実に残す、疵だらけの左腕。今までなんの疑問も抱かず――抱いていないように振る舞い続けて、その傷に自ら触れることなんて無かったのに。






まさか――






「ごめんなさい…」




吐き出された謝罪の言葉。俺達を真っ直ぐ見据えている真紅の瞳からは…もう何度見たのか分からない、嫌になるほど直視してきた、あの涙が流れていて。





「俺の、嘘に巻き込んで――ごめんなさい」

















――限界まで張り詰めていた糸が、小さな音を立てて断ち切れた。






その糸が落ちる場所は、果たして――




























――――
涙が抱えた愛しさ
藍坊主/「おいしいパン食べたい」



→『涙』シリーズ第九話。一時の嘘を経て、全てに決着がつこうとしている。嘘を暴いたのは、他でも無い彼自身。その真意と、想いとは…。

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