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針[5]―上―


友人の消失
18.
のちに至って、土方と縁を切ってでも止めておくべきだった、と近藤は後悔することになる。
胸騒ぎ。睡魔が徐々に押し寄せてきて、身体も動作が硬くなってくる頃に、不意に携帯を握りしめて、近藤は土方に電話をした。

だが出ない。何度電話しても、出ない。
こんな時間に電話をかけ、鳴りっぱなしの発信音に苛立ちを募らせるのは御門違いかもしれないが、今の近藤に、頭を冷やして考える余裕はない。
(出ねえな…)
大概諦めていながら、何度もペアボタンを押してしまう。出るまで自分は鳴らし続けるつもりか。
もう20回以上、非常識極まりない回数の発信をした挙句、重い溜息をついて、耳元から携帯を離した。
が、近藤は電源を切らなかった。

『……もしもし』

なんと、出た。距離の置かれた受話器から俄かに、10代にしてはしっとりとしたハスキー声。
紛れもなく、土方の声だった。
胸中のどす黒い霧が綺麗に払い退けられて、近藤は思わず電話にがっついた。

「トシ、トシか?」

これほど友人の存在が愛おしいと思ったことはない。人の迷惑云々よりも、相手とコミュニケーションが取りたかった。
「ああ、お前か」と不機嫌な声が返ってくる。当然だ、こんな夜中に。だが、よかった。

「何だか嫌な予感がしてさ…思わず電話しちまったんだ。すまねえ」
『嫌な予感?なに意味わかんねえこと、言ってんだ』

御尤もである。今更になって自分の愚行を恥じ、言い訳など出来ず、謝るばかりだった。
受話器の奥で、盛大な溜息。近藤も一緒に溜息をつく。こっちは、安堵の息。
『心配性だな』と、苦笑交じりに、土方がもう一度溜息を漏らした。

「悪かったな…仕方ねえだろ、もしかしたら、なんて思っちまったら、居ても立ってもいられなくなんだよ俺は」
『もしかしたら?』

一瞬、妙な間があった。

『それはそうとして、お前、時計見ろよ。今何時だと思ってんだ』
「あ、すまん。もうすぐ11時…」
『お前なあ…俺だったからいいけど、この時間に人様ん家にかけるのはどうかと思うぞ…ま、俺も人のことは言えねえけど、お母さん泣くぜ?』
「悪かった…」

まるで10も離れているような年寄り臭い説教をしてきた。土方らしからぬ、と思いつつ、近藤は軽く流した。

「とりあえずよかった。じゃあ、ここいらで切るな…悪ィ、本当に」
『ん、いいよ。それから宿題置き忘れんなよ。あんまり回数重ねっと、内申点に響くからな』
「はは、何先生みてえなこと言ってんだよ。今回はちゃんと鞄に入れたから」
『それならよし。じゃ、もう切るぜ。俺たちも寝るわ。おやすみ』
「ああ、また明日なトシ」

土方の無事を確認できたと同時に、先日の一件をきっかけに、嫌な距離が出来てしまったのも、僅かに縮められたようでよかった。
最後の彼の言葉は、温かみがあったから大丈夫だ。
あれ。最後、彼は何と言ったか。

『じゃ、もう切るぜ。俺たちも寝るわ』

近藤は表情を失くす。


「トシ、お前…今、誰といるんだ?」


黙。
暫くして、ツーツーという、電子音が聞こえてきた。電話が切れたのだ。
近藤は携帯の液晶画面を見直す。通話時間が表示されていた。

まさか。
何の疑いなく、土方といるその人物が近藤の頭の中で形を成した。
電話を切られた理由。それは近藤に一番知られたくない人物だったからではないか。

「あの馬鹿っ」

近藤は再び同じ番号にかける。だが今度は、持ち主が電源を切っている、というアナウンスに拒絶された。逃げられた。

土方の家に行くか。行くって、なぜ。それでどうするつもりだ。
ただ単に、友人が好いた人間を招いて、実は両想いで、抱き合っているだけかもしれないのに?
自分は何を心配しているのか。その相手が坂田銀八の恋人だったから?殺人犯の恋人だったから?関係ないだろ。
あるいは、その後の恋人も、同じ罪を犯したから?土方の言うとおり、偶然かもしれないのに?否。

兎にも角にも、彼と土方を近づけてはならない。自分が動くのは、この直感だけで、充分なのではないか。
近藤は上着を羽織り、家を出た。

19.
土方の携帯をベッドに放って、銀八は余程可笑しかったのか、けらけら笑いながら高杉の腰を沈める。
「わざと、あんな発言を…」
近藤をここに来させる気なのか。
悲しそうに、しかし半ば自分のために諦めてくれる恋人が実に愛おしく、銀八はその腰を揺さぶり続ける。

命をいくつも奪う理由は、当時と今では違うことを、銀八は理解した。
人の死を見て、自分の生存を確認する。自分の手で殺すことで、自分の存在を知らしめる。第一の目的はこれだった。
だがこれは一番はじめ、自分が人殺しをし、自殺した後に一変した。
いつの間にか、自分と、この高杉は母子関係のようになり、自分は高杉がいなければ、母の存在がなければ歩けもしない、赤ん坊になった。
きっと自分は、高杉が自分を欲する以上に、高杉の存在を欲した。

失えば失うほど、自分たちが絆を深めていくのが分かる。人殺しは同時に、高杉に逃げ場を失わせる手段だった。
自分の“手伝い”だけしてくれればいい。実行犯よりも、うんと軽い罪、なんて嘘だ。
世間一般では殺人犯と同じ扱いになる。

もう高杉にも、自分にも、味方、というものは存在しない。
味方になってくれそうな人間は皆、針の犠牲者だ。

「殺すんだな…?」
「そうだよ。可哀そうだね。ゴリくんはこれから、担任である俺に殺されるんだ」
「土方に、だろ…?」
「ああ、そういうことになるね…友達と担任の二人に、裏切られちゃうわけだ」
「酷え、男……あっ、っ」
「そんな酷い男に、抱かれるお前と」

ああ、大好きだよ。本当だよ。信じてくれてるか分からないけど。ほんの時々だが、ふと思うことがある。
自分が俗に言う、正常な思考の持ち主で、あるいは夢見がちな馬鹿な男であれば、
これを純愛と呼べたかもしれないのに。

「そんなお前がいなければ何もできない…無力な俺」

絶頂を迎える前の、ほんの一瞬、銀八は高杉に口づける。
ごめんよ、晋助。
音にならない言葉を、そのキスに潜ませた。

20.
深夜。寒気に身を縮めながら、酔っ払いだらけの電車に乗り、次の駅で降り、前のめりになって歩いた。途中からは、ほとんど駆け足だった。
自分の胸に、落ち着け、と言い聞かせ、一時何かが晴れたように見え、しかしまた突如霧に囲まれ、の繰り返しだった。

もし、土方の家にいるのが高杉晋助だったら、何が起こるというのだ。
土方が坂田銀八や平賀三郎と同じような罪を犯すのではないか。あるいは、被害者となりうるのではないか。

いや、何もありませんように。様々な推理はさておき、これが本音だった。
人より無駄に正義感が強く、心配性なところも自覚している。
こんな時間に、そんな漠然とした理由で友人の家を突然訪問するなど、気でも散ったかと思われるだろうが。

今の自分の行動に、尤もな理由はつけ難く、これこそ、虫の知らせ。近藤はそう思った。
だめだ。どういうわけか、土方の笑顔が全く浮かべられない。いつもの、さっぱりとした、男気のある表情が浮かべられない。
近藤は首を横に振る。何もかもが、手遅れな気がしてならない。そんな考えはやめなければ。だが、これから向かう場所が、地獄の門のように感じられる。

息を切らして立ち止まる。土方の家に、漸く辿りついた。
(明りが点いてる…)
とりあえず、生きてはいるか。少しだけ胸を撫で下ろし、近藤はドアベルに手を伸ばす。
土方の家は久々だが、外見は変わってない。
この深夜には煩わしすぎる、訪問者のベルの音が鳴り響く。

時間の感覚というものを、この時近藤は失っていたのだろう。
中から人が現れたのは数分経ってからだったが、わずか数秒の間だった気がした。


「近藤っ?」


土方だった。彼はサイズが大きめのシャツに、ジャージのズボンを履いていた。
目を丸くして近藤の姿を凝視する。

「おま、何でこんな時間に。何考えてんだよっ」

眉間に皺をよせ、土方は声を荒げてくる。
すまない、と無礼を詫びた後、近藤は息を整え、土方に駆け寄った。

「確認してえことがあるんだ、どうしても」
「な、何だよ。いきなり、どうしたんだよ」
「正直に答えてくれ。今、誰を家にあげてるんだ」
「は?」

近藤が言い放った後、土方が険悪な表情を見せる。

「んなこと聞くために、お前、こんなとこまで来たわけ?」

僅かに細めた眼には、軽蔑の影が潜んでいた。御尤もだが。

「お前が、電話を切ったから…嫌な予感がして」
「…お前にゃ、関係ねえだろ。どっちにしても非常識だろ、この時間は。馬鹿だろお前」
「誰だ、言え」
「近藤、お前おかしいぞ。そんなこと、どうでもいいじゃねえか」
「いいから言え!」

思わず、怒鳴り声になった。土方は一度閉口して、近藤を睨んだ。


「…高杉さんだよ」


土方は表情を歪ませて言う。予想通りの答えだというのに、とてつもなく不快な衝動に駆られた。

「今、部屋にいるのか?」
「どうするつもりだ。高杉さんに、何かするつもりかよ」
「何もしねえよ。話がしたい。頼む、数分だ」

何を話すつもりなのだ、と土方の代わりに、自分が自分の胸に詰めよる。

「いい加減にしろよ…お前。俺も、さすがに許せねえよ…」

土方の目は、近藤を完全に敵視している風だった。
どうしても、奥へは通してくれなさそうだ。だが、自分も、どうしても奥へ通してもらわなければならない。そんな焦燥感が全身を駆け巡っている。

「どいてくれっ!」

近藤は力づくで土方を押しのけた。土方は近藤に一度だけ怒声を浴びせたものの、近藤を取り押さえようとはしなかった。
近藤はそのわけを知る由もなく、自分の背中が、殺意を剥き出しにした笑みに送られていたことにも気付かなかった。

土方の部屋に踏み込む。ベッドがあり、その上に、彼が腰掛けていた。
素っ裸が飛び込んでくるかと構えていたが、彼はきちんと、衣服に身を包み、近藤の姿を捉えると、特に驚く様子もなく、
まるで近藤が来ることが分かっていたかのように、涼しげな微笑を浮かべた。

「あんた…」
「…土足で踏み込んできて、いきなり俺を『あんた』呼ばわりか?」

しつけのない子供だ、とでも言うように、小馬鹿にしくさった溜息を漏らしてきた。

「何で、あんたがトシの家にいる?」
「以前から約束していたことだ。お前こそ、どうしてこんな時間に?」
「あんたが来ていると思ったからだ」
「俺が来ているから?意味がわからねえな」

まるで相手にしてくれてない。あの土方の真っ直ぐすぎる好意を、指先だけで操るかのごとくの、余裕たっぷりの表情だ。

「あんたの恋人、二人も殺人を犯して、自殺している。二人ともだっ」
「それが?」
「正直に言いますよ」

近藤は畳みかけようとする。相手の顔色の変化を、少しも見逃してはならない。

「俺は、あんたが何か握ってる気がしてるんですよ…」
「俺を疑ってるのか?」
「確信はありませんよ。証拠もありませんから。でも、こんな偶然、普通はないでしょ」
「偶然だ。帰りな。煩いガキは嫌いだ」
「すっとぼけんなよ!」

怒鳴った。皮一枚でさえ剥がれない苛立ちに、近藤は拳を握りしめる。
ふと、自分の背中に温度を感じた。いや悪寒か。
自分の影が大きく膨れ上がったのを見、近藤は思わず後ろを振り返る。

「トシ…?」

名を呼ぶと、彼はにんまりと口元を曲げた。
電流のごとく戦慄が全身を駆け巡り、即回避の指令を聞いた。
近藤は反射的に、飛び上がるようにして彼から離れた。

自分の身体が空気を突き抜ける間に、彼の手が瞬時にポケットを探ったのを見る。
出されたものに、近藤は目を見開いた。


銃声。


近藤の左脚から、血しぶきが上がった。呻きの声は詰まり、近藤はそのまま地に落ちる。
(嘘…)
初めて感じる、高熱に魘されるような痛み。床に潰れた自分の左足からドクドクと、どす黒の血が噴き出している。
ぎょっとして、彼を見やった。

「命中。うまくなっただろ?後で褒めてね、晋助」

彼は器用な手捌きで、銃を回して誇らしげに言った。


「トシ…お前、何でそんなもの…」


土方が自分を撃ってきた。頭がぐるぐるして、冷静な思考が失われる。
彼はまた奇怪に笑う。
腰が引けた時、2度目の銃声と共に、右足が悲鳴をあげた。
近藤の口からは、発狂に近い声が絞り出された。

「痛いだろ?」

静寂な狂気。そんな言葉がよく似合う声だった。
土方が言っていることなのか。何もかも、信じがたい現実だった。

「さて、足止めもしたことだし、どうやって殺そうかな…」

さらりと恐ろしい言葉を口にしながら、土方が近づいてくる。片手には銃。
眼前の土方は、もはや全くの別人だった。

「っ…お前、どうしたってんだ…何で…俺が、俺が何をしたって言うんだ…」

土方に問いかけているというより、自分の目が正しいのかどうかを、問うているようだった。
土方の後ろで、静かに構えている人物が目に入る。

「高杉さん、あんたが…そそのかしたのか…?そうか、今までのも、全部あんたが、仕向けてやったことじゃねえのか…っ?」
「………」
「俺が気に入らなかったのか…?俺がいると、トシに近づけねえからっ」

それなら納得がいく。だが高杉は相変わらずだんまりして、表情一つ変えなかった。

「晋助を責めんじゃねえよ」

代わりに答えたのは土方だった。少し怒気を含んだ声で。

「特に理由はないさ。土方も別に、君を恨んではいなかったしね」
「は…?」

土方が自分を「土方」と呼んだことに、目を丸くする。

「君はさあ、こんな話信じる?」

銃を自身の頭に宛がう。

「数え切れない神経や思考回路が詰まっている脳のデータが、こんなちっこい針に収まっちまうって話」

土方が二本の指で表現する。相手の言わんとしていることを、近藤は理解できない。

「天才だよ。科学の大進歩だよ。でも、天才ってのは、どの時代にもいるものなんだ。それも、案外身近なところにね」
「………」
「俺は運がいいよ。そんな何百人に一人の天才って奴に、会うことが出来たんだ。そいつに頼んで、俺のブレインデータを丸ごと、“針”にしてもらったんだ」
「何を…言ってるんだ……?」

呆然とする近藤の前で、膝を折る。

「だが凄いのは、“針”の能力だ」
「?」
「ウイルス的な能力だと言えば、分かるかな。その針を、他人の脳に埋め込むとね。そいつの脳は瞬く間に侵食されて、人格が変わっちまうんだ」

不快感が押し寄せる。絶望の階段を駆け上がっている気がした。

「もしその針が、この頭に埋め込まれているとしたら…」

瞬時、何かが明滅する。
近藤は全身の汗がひいた。答えは恐らく、この全身の不快感、嘔吐感、戦慄、これらの肉体反応が教えてくれた。

信じられない話だが、眼前の土方は、口調も表情も雰囲気も、いつもの土方のものではなかった。
では、もしその針の話が本当だとしたら、この男は。

土方の姿をした、誰か。誰なんだ?
小さな声で尋ねる。ふと、その時見せた男の表情に見覚えがあった。
待て。最初のきっかけは何だ。
ああ、そうだ。あの人の。あの人の引き起こした事件ではなかったか。

はっとなる。



「…先生……?」



銀八先生。
無意識に零れた、その名前。口にした途端、ああ、と近藤は声にならない叫びをあげる。
あの時見た、平賀三郎の家。研究室のようだったあの居間。
システム関連の勉強をしていたという高杉晋助。父親が脳外科医だったとか。
それならば、この男の言う天才とは、高杉晋助のことか。
この男は恋人である高杉に頼んで。それならば次の平賀三郎の事件は、そうか。
平賀三郎は、その針を脳に埋め込まれて、だから全くと言っていいほど同じ事件を起こした。では、土方は。
平賀三郎と同じく、針を埋め込まれたのだとしたら、土方は。

「今更知っても、もうどうしようもねえけどな」

銃口が向けられる。三度目の恐怖の騒音。近藤は真っ赤に染まった右肩を庇った。

「まあ裏切られたようなものかな。事実、土方は君よりも晋助を選んだわけだしね」

ちらりと、高杉に視線を送る。

「そうだろ?晋助」
「………」

高杉は目を背けるが、その心中で苦く首肯していた。
高杉への想いを貫いたにも関わらず、それは自分を闇に追いやる結果となる。だがそんな土方に、少なからず、高杉は同情した。
自分もまた、銀八の願いを叶えた結果がこうだ。

「トシは…トシは…どうなっちまったんだ……」

口を開いたのは、何と高杉だった。


「死んだよ」


え、と希望の一切が失われた瞳で、もう一度尋ねてきた近藤に、「死んだ」と高杉ははっきり言った。
自分が殺したんだ、という言葉は伏せて。

近藤は絶叫した。涙すら流れない、凄まじい恐怖と、救いなど永遠に無縁のものであるかのような衝撃だった。

土方との思い出が今一気に、抱えきれないほどに膨れ上がり、物凄い勢いで流れて行き、ひとつも拾えない状態で、
それが耐えられなく情けない裏声を出し続けた。


「その友人のせいで、君は死ななければならないのにね…」


ぽつりと呟いた後、彼は銃を構え直し、再び引き金を引いた。
近藤は左肩を撃ち抜かれると、喉を詰まらせて大人しくなる。

「うぜえ」

5度目の銃声。腹部の横が破れて出血した。近藤はもう声を上げなかった。痛みを通り越しているのかもしれない。
顔の皮膚がひくひくと痙攣して、か細い呼吸をしていた。

「先生……どうして、トシを……っ、トシは……あんたのことも、高杉さんのことも…すげえ慕ってたのに……っ」
「………」

銀八の銃を持つ手に、もう一つの手が置かれる。高杉の手だった。
彼は首を横に振った。

「もう、いいだろ…早く殺してやれ」

もう苦しめないでやってほしいと、苦悶の表情だった。

「…わかったよ、晋助」

もう一つの腕で、高杉を抱き寄せる。
これがもし、一度目の犯罪ならば、殺さないでくれ、とすがってでも止めるつもりだった。

「手短に済ませるさ」

高杉の頬に口づける。近藤はその光景を、横目で見据えていた。
血の池が出来ている床に、体重をかける。

今だ。

ぼろぼろになった神経で、懸命に探し求めていた隙が、今ここにあった。
本能が近藤を起き上がらせた。


「?!」


突如飛びかかってきた近藤に、銀八は呆気にとられて抵抗が遅れた。
床に倒れ込んだ銀八を抑え込む。土方よりもがっちりした体格が幸いした。
不意を突かれた銀八は混乱が解けないようで、武器を奪うなら今しかないと、激痛を振り切って近藤は、銃を持つ手を捻った。

「このっ、ヤロっ」

漸く、銀八も本格的に抵抗し始めた。
肩や腹部から血が噴き出して、近藤は目の前がくらくらとした。ただ、銃口からは反れなければ、と必死に身体を捩りながら、武器を掴んだ。
取り合う形になる。

土方と争っているような感覚に苛まれながら、近藤は唇を噛みしめる。

死にたくない。
人間の本能だ。生に対する執着心だ。それが勝ったのだ。
あとは、友人を殺した、この男への、憎悪と、裏切られたことへの悲しみと。


「しまっ…」


体勢を崩したのは銀八で、形勢逆転となった。
近藤は銃を奪い取る。

次に近藤を掻き立てたのは、生まれて初めての、殺意だった。
自分でも分からないのだ。既に目の前の人間を土方、とは見ていなかった。
彼はもう武器を奪い返す気力すら失われていて、呆然としていた。
それでもやはり恐怖心はあったのか、武器を手にした後は慌てて距離をおいて、銀八に銃口を突きつけた。



「殺してやる!」



後になって、本性というものが理解できた。
殺人者の感情を抱き、近藤は引き金を引いた。

血が拡散した。

撃ってしまった。

近藤は目を硬く瞑る。反動が物凄かった。手から銃が滑り落ちた。


「晋助…」


掠れた声が、力なくこぼれたのを聞いた。近藤は再び瞼をあげる。
そこには、予想だにしなかった光景が広がっていた。

血に濡れているのは、銀八の身体ではなかった。
銀八は青ざめて震えながら、自分を抱きしめているその身体に触れる。
まるで母親が子供を庇うようにして、その人は背中の、丁度心臓につながる部分を真っ赤に染めていた。

近藤はその場で膝をつく。
どくどくと、その人からも、自分からも、幾多の色が入り混じったような汚い血が流れて、床を染め上げるのだった。


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