創作物

□小説
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 タイミングの悪い事に、保険医は不在だった。だが鍵は開いていたので、勝手に中へと入る。

 そして中でガーゼやら包帯やらを、少しばかり拝借させてもらった。ちょっとした傷の応急処置は手馴れたもので、ものの数分で見事な麦の穂巻きが出来上がった。

 それに少し機嫌を直し、黒い長椅子にゆったりとくつろぐ。教室に戻る気はさらさら無かった。かといってこんな時間に家へ帰るわけにもいかない。ベッドで寝ようかとも思ったが、洗濯中なのかシーツの一枚すら見当たら無かったので止めた。

「ふあぁ」

 唐突に本日何度目かの欠伸が出た。暇潰しに携帯電話を弄っている内に、段々眠くなってきたのだ。室内が丁度良く暖かいせいか、睡眠不足のせいか。理由はともあれ、折角なので寝させてもらう事にした。

 携帯電話をカバンに仕舞い、長椅子の上に寝転がる。その途端、すうっ、と手元から意識が離れていった。


 小さな物音がする。誰か保健室に入ってきて、何かしているらしい。

「ん……」

 どれくらい眠っただろう。

 不意に現れた人の気配で、現実に引きずり戻された。目を僅かに開けてみれば、一人分の人影がぼんやりと見える。保険医が戻って来たのだろうか。

「せんせ?」

 相手の肩が驚いた様にびくりと揺れる。

 どうやら相手は保険医ではないらしい。此処の保険医は声をかけられた程度で驚きはしない。誰もいないはずだとしても、だ。という事は、他の生徒だろう。相手は戦戦恐恐といった風にこちらに近づいてきた。

 私は起き上がると眠い眼を擦り、相手の顔を見上げる。

「…………」

 咄嗟に声が出なくなった。相手は二十代前半くらいの、きっちりと正装をした見知らぬ男性だった。

 彼は困ったような目で私を見下ろしている。カラーコンタクトだろうか、血に濡れたように紅い目だ。

「……」

「……」

 お互い何と言っていいか分からず沈黙する。

 校内に入って騒がれていない、という事は不審者ではなさそうだ。その保障は何所にも無いが。何にせよ、とりあえず声をかけるべきだろう。このままこう着状態が続いても埒が明かない。

 不審者ではありませんように、と祈りながら私は口を開いた。

「あ、あのっ」

「!」

 突然口を開いた私に、又も彼は驚いたらしい。じり、と後ずさった。顔も、今にも死にそうな程青白い。そんなに恐がらなくても、と内心痛ましく思った。

「あの、貴方は何方でしょうか?」

 彼は沈黙したまま動きもしない。ただ、困った顔をしてこちらを見ている。 いきなり不躾だっただろうか。だが、他に思いつかなかったのだから仕方がない。

「……ええと。あ、そうだ。此処の先生に用があるんでしたら、職員室に行った方が良いですよ。たぶんそっちに居ますから」

 そう言うと、彼はやはり困った顔をしながら首を横に振った。そして戸惑う様に視線を泳がせながら口を開く。

「わ、私は、貴女に用が、あるのです」

「え?」

 思いがけない言葉に、問い返してしまった。見ず知らずの男性が、私に何の用があると言うのだろう。見当もつかない。

 彼は急に慌てた様子で口を開いた。

「も、申し訳ございません!」

 彼は叫ぶ様に言うと、出口に向かって駆け出した。私のカバンをその白い右手に引っ掴んで。

「あっ、ちょ、ちょっと待って! 私のカバン!」

 そう叫ぶが早いか、私は飛び起きて彼の後を追いかけた。保健室を慌てて出ると、彼が丁度職員室の角を曲がるのが見えた。それに向かって必死に走る。
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