短 想い 心

□日常
3ページ/4ページ

 トントントン…

 変わらないリズム

 水を浴びて、汚れを落として、次の仕事。

 トントントン…

 初めて貴女と出逢った時、貴女は真剣に隣にいる人と相談して私を選んでくれた。
 だから、私は初仕事の時、驚きはあっても落胆はしなかったの。

 驚くほどに不器用で、今とは違って、一定じゃない音だった。

 トン…トン、トン……トントンザクッ

 無理して早く扱わないで、貴女が先に壊れそう。
 私は切れ味抜群だから。

 そんな思いを何度も抱き、少しずつ上達する貴女が可愛かった。
 貴女は15で私と出逢い、今70になっても私と一緒。

 「おばあちゃん!お弁当まだ?遅刻しちゃうよ!」

 一度も私を使ったことがない、中学生の孫が言う。
 それに対して、優しく答える貴女を私は助けられない。

 「お待たせ」

 貴女が作ったお弁当を、礼も言わずに受け取る家族。
 孫と、娘と、婿と、旦那。

 だから誰も気付かない。
 貴女の手が震えているのに。

 自分のお昼と、孫へのオヤツを、貴女はすぐに作り始める。
 休む間も無く、作り続けて、誰も貴女の病気に気付かない。

 気付いているのに、私は何も出来ない。
 貴女が私を握るその手が、小刻みに震えているのに。

 そんな日が続いて、今日もまた、貴女は私を握る。
 震えるその手が、小刻みじゃなくなって、それでも私は何も出来ない。
 私は包丁、使って貰っているのに、恩があるのに、貴女の為に何も出来ない。

 「行ってきます」

 四人の家族は出掛けて行った。
 いつもと同じ、貴女はお昼とオヤツを作り、あと少しで完成。
 それなのに、辛そうに貴女は私を握っていた。
 そして今、貴女はとうとう私を落とした。

 ねぇ…
 どうしたの?

 貴女は糸の切れた、操り人形のように、崩れ落ちた。
 私はどうして包丁なの?
 近くに見える電話。
 近くに見える玄関。

 ねぇ…
 貴女を助けたいよ…

 願いを口に出すことも出来ずに、倒れた貴女に、何も出来ずに…。
 苦しそうな貴女の、最期を看取るしか…出来ないの?
 ねぇ…?

 その思考を遮るような、激しい音が、家中に鳴り響いた。
 電話が鳴り出し、玄関のドアもガチャガチャと盛大な音がする。
 電話やドアが私に応えてくれたのかと、そう感じてしまう程に…。
 だけど、ドアが開かれ、電話が鳴り止み、現れた人間の姿に、落胆した。

 「おばあちゃん!」

 意識が朦朧としている貴女は不思議そうに問い掛ける。

 「学校は?」
 「早退したのよ!おばあちゃんが作ったお弁当、変だったから!」

 言うのが早いか、動くのが早いか…。
 孫は救急車を呼び、家族に連絡をした。

 鳴り響いた電話は、娘からのモノだったようだ。

 貴女の異変に気付けたのは、私ダケではなくて…。
 貴女の生命を救ったのも、私では無かった。


 貴女は病院へ運ばれ、脳血栓であると診察を受けた。
 それから、貴女が帰るまで、家族会議をしたり、出前を取ったりする家族が見られたけど、帰った貴女は右半身を動かせなくなっていた。

 それからは、また、一定じゃない音が聞こえる。
 貴女が若い頃、私が新しい頃、出していた音とソックリな音で…。

 トン…トン、トン…トトン、ザクッ

 「痛ぁい!」
 「指はこうして、猫の手にしなさい。指が野菜と一緒に切れちゃうわ」
 「おばあちゃんは休んでて!私が作るんだから」

 貴女が私を握らなくなって、この家は変わった。

 孫が夕飯を作り。
 娘が朝食を作り。
 婿が買い物をして。
 旦那が仕事を辞めた。

 お昼は旦那が、やはり慣れない手付きで貴女へ食事を作る。

 でも…大丈夫だね。

 貴女も指を切らなくなり、段取りが良くなり、そして、気が付いたら貴女だけが食事を作っていた。

 もう、大丈夫だね。

 これからは、皆で支えて行けるから。

 孫は15。
 貴女が私を選んだ歳。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ