月下紫舞

□10000hit短編
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 人間が怖かった。
 欲の塊である人間が。

 その笑顔の裏に隠された醜い心なんて、吐き気がする。
 やすやすと騙される愚かな人間と、巧妙に同じ生き物を騙す人間が入り混じるこの世界と日常は、僕にとっては地獄だった。

 吸血鬼なのに人間を恐れるなんて、笑い者にされることにも恐れた。

 すべてを憎み、すべてを恐れ、殻に閉じ籠もっていた僕を、君があの時外へ連れ出してくれたんだ――。


「暁……いい加減外に出ないか? 珠稀や凪と一緒に学校へ行きなさい」

 ずっしりとした質感のある黒い椅子に深々と腰掛け、パソコンを慣れた手つきで操作しながら、眼鏡をかけた細められた眼を向ける。
 視線の先には、小さな椅子にちょこんと座った、全身を黒に包んだ少年。
 やや癖があり絶妙なはね具合をしている漆黒の髪は濡れたように艶やかに光り、俯いた眼は白眼がないように思えるほどの暗い闇を帯びた色をしている。
 窓の外には雪が積もり、部屋の中は暖房によって適温に温められているというのに、ぶ厚いセーターに身を包んでいた。
 年齢にして八歳くらいの、黒薙暁。

「……ヤダ。学校なんて、馬鹿な子供が集まって馬鹿やってるところだし」

 口を尖らせながらぼそぼそと呟いた。
 その言葉を聞いた、椅子に座っていた四十代後半くらいの男はパソコンを横にどけて、真っ直ぐと暁を見つめながら腕を組んだ。

「お前も子供だろ」
「子供だけど……! 知りたくもない心が勝手に流れ込んでくるんだよ!」
「何度も言っているだろう? 人に接して、その心に触れて、心を読んで、それから強く拒絶する。読んだ心すべてを拒絶すれば、やがて勝手に流れ込むということはなくなるんだ。何度言ってもわからないお前は、学校に来るその馬鹿な子供たちと一緒だな」

 鼻で笑いながら言った男に、暁は顔を顰めた。

「だって……そんな、まともに喋れるのは棗さんだけだよ。喋ろうと思っても、怖くて何を喋ればいいかわからないし……それに、伝心を使えば会話なんていらない。誰とも会わなくたっていい。こんな下らない世界に生きる奴なんかに、会いたくもない」

 激しい憎悪を含んだ声は、幼いながらにとても低いと言えるトーンだった。
 棗と呼ばれた男は溜息をつきながらゆっくりと立ち上がった。目線の差から見下ろすことになった棗は、眼鏡をはずして机の上に置くと、細めた眼で暁を睨んだ。
 上目遣いで怯えたようにその眼を見た暁は肩を竦める。

「甘えるなよ。いつまでもビクビクと……根性無しにも程があるな。たかが人の心が何だって言うんだ。便利じゃないか、心が読める能力だなんて。僕は非常に便利な能力だと思っているよ」

 最初の方はきつく叱るような声と鋭い視線で言ったが、やがていつものように優しさを帯びた声に変わっていく。
 暁は真剣な表情で話を聞きながら、その小さな頭で考え込む。
 人の心を読む能力。うまくコントロールができず、目を合わせただけで頭の中に心の中が流れ込んでくる。その能力の訓練として、同じ能力を持つ紫苑棗に教えてもらっていた。
 同じ能力を持っている所為か、棗の心は読めない。同じように棗も暁の心が読めない。それは暁にとっては救いであったが、棗にとっては心が読めないことで上手く立ち回ることができないのだ。
 お互いの価値観の違いからくる、微妙に合わさらない歯車が、時を重ねるにつれてギスギスしたものになっていく。




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