sincere
□クリスマスと来訪
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必要最低限の家具と、綺麗な額縁に入れられた一枚の写真。それが、この部屋を構成するもの。
自分とよく似た瞳、よく似た笑みを浮かべながら、幼い自分を抱きかかえて微笑む母の姿。今は亡き、大好きだった母親。
「お母さん、行ってきます」
写真に向かって微笑んだ詩織は、制服のネクタイを締め、鞄を持って部屋を出た。
息が白くなりだした。マフラーがなければ首元が寒くて、すぐに風邪をひいてしまいそうな。そろそろ手袋をはめた方がいいかなと思いながら、詩織は薄暗い空を見上げながら静かな朝の道を駅に向かって歩いた。
顔も覚えていない父親から与えられた家。高度なセキュリティで有名なマンションで、家賃はゼロが並ぶ。女子高生が住むような場所ではないが、詩織はそこで一人暮らしをしていた。否、させられていた。
出勤する大人たちの間に紛れて駅へ向かった詩織は、エスカレーターで小さな子供が転ぶのを見かけた。母親が慌てて抱え上げたが、柔らかい膝の肌は縦線に切れ、じわりと血が滲みだしていた。
「ふぇ……ぇぇ……」
しゃくり上げながら泣きだした子供をあやしながら邪魔にならない場所へと連れて行った母親は、困ったように子供の涙を拭いていた。
詩織は一瞬考えるように顔を顰めたが、隅っこで泣きじゃくる子供の方へと向かいながら小さく「絆創膏」と呟いた。可愛らしい絆創膏が詩織の手の平に現れた。
「大丈夫ですか? これ、よかったら使って下さい」
「あ……ありがとう」
詩織が差し出した絆創膏に母親は驚いて目を見開いたが、やがて優しい笑みを浮かべた。
子供が怪我をして泣きじゃくり、傷を手当するものがなく困っている母親に手を差し伸べるほど、周囲は優しくない。赤の他人だ、誰かが何とかするだろうという冷たい反応ばかりだ。
母親は子供の膝をたまたま持っていたウエットティッシュで拭い、詩織から貰った絆創膏を貼った。
泣き叫ぶ子供の前に詩織はしゃがみ込むと、ニッコリと微笑んだ。
「ねえ、おてて出してごらん」
優しい口調でそっと言った詩織に、片手で顔を涙でぐしゃぐしゃにしながらも子供は濡れた小さな手を広げて詩織の前に突き出した。
詩織はニッコリと笑うと、その小さな手を人差し指で突いた。
刹那、袋に入った水色の透き通った小さな飴が手の上に現れた。
子供は呆然と口を開けたまま突然現れた飴をジッと見ていた。
「元気が出る飴。あげるね」
ニッコリと微笑みながら詩織が言うと、子供は頬を涙で光らせながらも笑みを浮かべた。
「お姉ちゃん、ありが……」
「捨てなさい!」
笑顔を取り戻した子供が礼を言おうと詩織の眼を真っ直ぐ見た瞬間、母親が子供の手を叩いて飴を飛ばしてしまった。
手を叩かれた痛みと、飴がなくなった悲しみに、子供は再び顔を歪めた。
詩織はただ、無表情で目の前の親子をジッと見ていた。
先ほどまで微笑んでいた母親が、まるで子供を誘拐しようとした悪者を睨むように、詩織を見た。
「何が元気の出る飴よ! 得体のしれないモノを……能力者め!」
「……ただの飴ですよ」
冷たい眼差しで母親の鋭い睨みに対応した詩織は、静かに答えた。
母親は詩織の態度が気に入らなかったらしく、さらに般若のような形相を浮かべると、子供を詩織から引き離した。
「何もないところから飴が出るもんですか! 気持ち悪い!」
吐き捨てた言葉に傷つく素振りもなく、詩織はただ再び泣き出した子供の手を引っ張って無理やり連れて行く母親の後ろ姿を見つめていた。
小さく呟いて飛ばされてしまった飴を手元に引き寄せると、袋を破って水色の飴を口の中に放り込んだ。シュワッとしたサイダーの味が口の中に広がった。
「……出るんだよなー……それが……。っていうか絆創膏も得体のしれないモノになるのに……」
溜息交じりに独り言を呟きながら立ち上がった詩織は、涼しい表情で改札に向かって歩いた。まるで何もなかったように。
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