*一周年記念*
□うそ偽りなどないということ
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「……困ったな」
二人で過ごす穏やかな空気に満ちた部屋に響いた言葉はあまりにもその雰囲気に似付かわしくないものだった。
促されるまま枢に身を寄せ彼の温もりを感じながら今にも眠りそうになってしまっていた優姫の目もその言葉により自然と覚めることとなる。
本当に何か頭を悩ますような問題があったとしても優姫の前では決して弱音もそんな気配すらも見せることのなかった枢が憂鬱な面持ちで「困った」と言いながら小さくため息をついたのだ。
……それも優姫の目の前で。
「おにいさま……大丈夫ですか?」
そっと身を起こして様子を窺うように枢の顔を覗き込む優姫は、逆に枢が「大丈夫?」と心配したくなるような顔をしていた。
優姫にそんな顔をさせてしまい枢は少しばかり悲しい顔をしてみせ、その言葉の理由を正直に隠すことなく告げる。
「……胸が苦しいんだ」
「胸……って、心臓ですか?」
苦笑しながら目で「そうだよ」と伝える枢の胸に優姫はそっと自らの耳を当ててみる。
心音を聴いたところで異常がわかるわけではないし、ヴァンパイアが、ましてや純潔種が病気になるなんて思ってはいなかったが優姫はそうせずにはいられなかった。
「おにいさまの心臓の音…なんだか速い…」
目を閉じて集中すれば確かに伝わってくる枢の鼓動。
心地よいリズムで刻まれていたはずの枢の脈動はいつも傍にいる優姫だからこそわかるレベルで速くなっていた。
「……知ってる?
僕の胸が苦しいのは優姫のせいなんだよ?
優姫が僕の傍に居るだけでこんなにも苦しくなるんだ…」
「え……?」
微笑みながらそう告げた枢。
それを聞いて表情を曇らせる優姫。
枢のその言葉の意図と優姫の受け止めた意味が食い違ったのは明白だった。
勿論枢はそれに気付いたが優姫は気付く筈もなく、どんどん悪い方向へと考えを巡らせ顔面蒼白となっていく。
おにいさまが困るなんて余程のこと。
そんなに辛いのなら私に出来ることは何でもしてあげたい。
でも私のせいでおにいさまは胸が苦しくて。
おにいさまを困らせている元凶は…私。
私が傍にいるだけで苦しいのなら…私はどうやらおにいさまの傍にいてはいけないみたいですね。
優姫の瞳から一筋の涙が零れた。
突然の優姫の涙に枢は少し困った顔をしながらもいつも通りその涙を拭ってやろうと優姫の頬に手をのばす。
しかしのばされた枢のその手は優姫の頬へ届くことはなく、代わりに彼女の華奢で小さな両手が彼の手を包み込んでいた。
俯いた優姫の涙は雫となって枢の手の上に零れ落ちる。
「優姫……」
「ごめんなさい、気付かなくて…
でも大丈夫です。
私…おにいさまを苦しませる様なことはもうしませんから」
「待って優姫、君は何か勘違いを…」
「それじゃ…おにいさま、お大事に」
枢の手を名残惜しそうにそっと撫で、瞳には涙を浮かべたままどこかぎこちない微笑みを見せた優姫は、枢の制止を振り切って振り返ることもなく部屋を飛び出した。
優姫のその腕を掴もうとした枢の手は虚しく宙に浮いたまま。
優姫の駆けていく後ろ姿を捉えていたその手は、彼女の姿が見えなくなると同時にゆっくりと下ろされた。
「本当に君は…僕を惑わす天才だよ」
小さく息を吐き、枢はゆっくりと立ち上がった。