湿り気のある終わりにも、晴れやかなる始まりにも相応しくなかった。ぼんやりと陽の光に明らめられた薄曇りの朝、私の寝屋を訪れた彼は静かに微笑んでこう言ったのだ。
「時がきたから」と。



good bye again,again





「ええ」

寝床から体を起こしながら、ふっと笑みを零し応える。ひんやりとした空気が素肌を撫で、僅かに身をすくめる。いつもであれば体温の低い私を暖めようと伸びてくる腕が、今朝は大人しく彼の膝の上に収まっている。ああ、あの温もりに包まれることはもうないのだ、とどこか冷静な頭がそう囁いていた。
別れの朝と呼ぶには明るすぎた。けれど、旅立ちの朝には寂しすぎた。風が戸を叩き、小鳥は一日の始まりを告げる歌を奏でる。いつも通りだ。ただ違うのは、私たちの最後の朝であるかもしれないと、胸に寄せる予感が在ることだった。

「これからどうするんですか」
「江戸に行こうかなって」
「ああ」
「アキラは?」
「そうですね、修業の旅にでも出ましょうか」
「ふうん」

沈黙。けれど知っていた。いや、昔は知らなかった。空気に伝えたい言葉が含まれていること。無口な(よく見れば微細な表情の変化で語っているのだけれど)彼と付き合ってきた時間は、その空気を読み取る術を身に付けさせた。
耳を、すませた。

「…ほたる、」

奇妙な気分だった。無意識にこぼれ落ちたのは確かに彼を示す言葉だった。けれどそれは単なる音の羅列となって空気を伝う。何故だろう、と考えていた刹那、唐突に気付いた。この、三文字の短いことばは、たった今から過去のものへと姿を変えたのだ。昨日まではこの世でいちばん愛おしい名前であったのに。昨日と今日のあいだには何があるのだろう。毎日気にも留めずに乗り越えているその境には。午前零時、カチリと進む秒針、それは誰も知らない未来なのだ。

「どうして、泣いてるの」

そう、私は泣いていた。否、泣いているというには語弊があった。私は、声を上げずに静かな滴を落としていた。それを拭ったのは自分の酷く冷たい指であった。けれど、ぱたぱたとそれは留まる気配を見せなかった。

「かなしい?」

問う声はいたく淡々としていた。私はふるりと首を横に振った。かなしいと呼ぶためには、激しさが足りなかった。ざわつくような揺れも、しめつけるような痛みも。けれど涙を溢れさせる、この思いは。

「うれしいんです」
「…うん、」

笑った。鮮やかに、さわやかに、穏やかに、安らかに?綺麗な、笑みを。
ここで別れを選ぶということは、いつか出会う未来があるということだ。それは何よりも嬉しくて。はたり、はた。零れ落ちて頬を濡らした。

またあえる。ぽとり、嬉し涙、それはいつか。




音もなく気配が近づいては消えた。滴に湿った唇が熱を持っているのに気付いたのは、彼が部屋を出て行った後だった。
何も変わらない朝だった。ただただ、涙は止まることなく流れ落ちていた。どうしても伝えたい言葉があったのに、それは真っ白な壁に吸い込まれて消えた。



end.
・・・and thanks a lot!



あとがきという名の言い訳





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