■生命の失楽園〜中絶論〜


あかささ〜2009年5月〜


私(田尻)は常日頃から明確な「中絶反対論者」を標榜しています。

それも「かなり堅固な」反対論者であり、今まで様々な人たちにそれを表明してきました。

この場合の論というのは、
「いかなる理由、事情であれ、中絶は明らかな『人殺し』であり、罪のない無力なものの命を奪ったという点においては、無差別殺人犯と何ら変わりない」
というものです。

法の裁きを受けるか否かといった違いこそありますが、原理原則としての、「人の命を奪う=人殺し」という考えに、いささかのブレもありません。


ところがここ2,3年、私に中絶経験を吐露する人たちが増えてきました。しかも、私が「中絶反対論」を表明した直後での告白が圧倒的多数です。その場合、私は上記にも示したような原理原則(人の命を奪う=人殺し)をあらためて話すことになるのですが、ある人はそれに納得し、ある人は「個人的事情」を盾に反論されてしまいます。言うまでもないことですが、個人的事情のない中絶などこの世にはありません。それを踏まえてもなお、中絶は人殺しであると私は言い続けるのですが、やはり齟齬が生じてしまうのが実際のところです。


こういった経験を踏まえて、私自身にとっての「中絶とは何か」をあらためて論考し、再考したいと思います。


■あらゆる中絶が合法化されているおかしさ


まず、母体保護法では、中絶が許される対象者として「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」を掲げています(第十四条一号)。この要件を満たした場合、指定医師が「本人及び配偶者の同意」を得て中絶を行うことができるのです。 
けれど、一般の人がこの文言を読んでも、先天障害児回避や男女産み分けのための中絶が許されているようには思えないでしょう。ところが、法律家はそうは解釈しません。条文中の「身体的又は経済的理由」という文言によって、あらゆる選択的中絶が合法化されていると読むのです。実際、出生前の胎児診断―超音波やMRIなどを使った画像診断や羊水穿刺や絨毛採取、採血などによる遺伝子検査―が幅広く実践されていて、その結果、男女産み分けのみならず、先天的な奇形や遺伝病を抱えた胎児が中絶されているのです。これを選択的中絶と呼びます。


■児童虐待は非難しても人工中絶は批判しない論者たちの身勝手


このように、中絶は事実上自由化されているといってよい状況であるにもかかわらず、フェミニストたちはそれでも飽き足らず、同条文の「配偶者の同意」を削らなければ不十分だと言い募っています。あまつさえ刑法の堕胎論も廃止すべしというのです。
フェミニストのロジックによれば、妊娠中絶は罪でもなければ、忌避すべきことでもなく、女性固有の正当な権利なのです。この立場において、胎児の権利などはまったく顧慮されません。

ところが他方で、一部のフェミニズム寄りの精神科医やカウンセラー、ジャーナリストたちは、親によるわが子に対する虐待や強姦をこの世で最も重大な罪過のごとく糾弾しています。もちろん、それらが忌むべき、許すべかざる犯罪行為であることに間違いはありません。
しかし、児童虐待を非難する論者たちが親の勝手な都合、欲望によって行われる妊娠中絶を同じように口を極めて批判している例を、私は寡聞にして知りません。

あえて、子供を虐待する行為と胎児を殺す行為のどちらが罪深いか、などとはここでは問いません。いずれも身勝手な大人の罪とするのが至当でしょう。

映画「ブレードランナー」や「トータルリコール」「マイノリティー・リポート」などの原作者として知られるSF作家のフィリップ・K・ディックに『まだ人間じゃない』という中篇小説があります。親の中絶権が完全に保障された後、さらに十二歳以下の子供たちの「生後堕胎」をも合法とされる近未来のストーリー。妊娠中絶と児童虐待とが連続的な事態であることを明証した名編です。その中の登場人物が吐き捨てるようにこう詰ります。

『あんたは狂ってるんだ。この生後堕胎計画やそれ以前の、生まれる前の子供には法律上の権利はないとする堕胎法―子供は腫物のように摘みとられてしまった。それが結局どうなったか考えてみろ。もし生まれる前の子供を正当な手続きなしに殺していいとなれば、すでに生まれた子供を殺しちゃいけないわけはないってことだろ?どちらの場合も共通しているのは子供たちが無力だということだ。殺される生命体には自分を守るチャンスも能力もないんだ。わかるかね?』

私は率直にいって、「個人的理由」を盾に中絶をある意味正当化しようとする偽善者たちに、これと同じ科白を付き付けてやりたいという気持ちを抑えることができません。


■胎児は中絶の脅威から逃れようともがく


中絶推進論者はよく、胎児は母体と一体の状態であり、独立した個体性を持たないので中絶に罪障感を覚える必要はないなどと述べていますが、現実を知らな過ぎる見方です。妊娠10週程度の中絶の場合にも、子宮に吸引器が挿入されるや、胎児は生存の脅威から逃れようとして必死でもがきます。

また最近の研究では、胎児段階にあっても人は、心身両面において高次の活動をしていることがわかってきました。母体と一体の、未分離の状態などとは到底いえないのです。

こうして胎児の独立性、個体性、自律的活動性がますます明らかになっているのに、胎児の権利の見直しの方は、一向に進んでいません。それどころか再検討の着手にすらいたっていません。フェミニストたちがそれを許そうとしないのが主因です。


■「人間の終わり」に抗し続ける「人間の尊厳」


さて、冒頭にも述べたように、
「中絶反対論者」である私を知ったうえで、尚且つ反論する人たちの「論理」

とは一体なんなのでしょうか?

私の個人的な見解としては以下のようなものです。

彼(彼女)たちは、
堅固な中絶反対論者に自らの「個人的理由」による中絶経験を語り、私から安易な共感、連帯、同情を含めた何らかの(自分にとって都合のよい)言質をとることによって、みずからの身勝手さや罪深さを正当化しないまでも努めて軽くしようとしているのではないか、

という一言に尽きます。だからこそ、私が原理原則をあらためて説明すると、「何もわかっちゃいない」とか、「経験したこともないくせに」といった反論に帰してしまうのでしょう。人殺しという事実に耐え切れず、自分の身勝手な行為からなんとか目を逸らそうと必死であるように思われて仕方ありません。彼らは自己承認を得ようと必死でもがいているようにしか僕の目には映りません。自覚があろうと無自覚であろうとも。おそらくはこの世に生を受けずに無力なまま死んでいった胎児のことを、日常に埋没させようとすることにしか頭にないのでしょう。

わざわざ私に反論する時間があれば、産まれてくること、それすらも許されなかった胎児のために祈り、涙を流すことをまず最優先させるべきです。

これは人たるものの業なのでしょうか?


こういうケースを見聞きするたびに、私たちは何という時代を生きているのだろうと臓腑が冷えてきます。

私の知人で、長らく精神病を抱え、医師からも子供をつくることを止められた女性がいました。彼女たち夫婦は子供を欲しているにもかかわらず、あえてそれを押し殺して子供のいない夫婦関係を保っています。もし彼女たちに「障害児でも、未熟児でもいい。私たちが引き取って大切に大切に育てたかった」われれば、私の意見に反る彼(彼女)たちは何と答えることができるのでしょうか?



人気医療マンガ『ブラックジャックによろしく』の主人公、斉藤は、NICU(新生児集中治療室)の研修中にダウン症と重篤な心臓疾患を抱えて生まれてきたわが子を見殺しにしようとする両親を何とか説得するように指導医に訴えます。

『先生言ったじゃないですか!?未熟児だって、障害があったって無限の可能性があるんでしょ!?それを親に気づかせるのが僕達の仕事なんでしょう!?産んだ人間と生まれた人間を親と子にしてやるって・・・それが僕らの仕事なんでしょう!?



青臭い正論といわれればそれまでです。けれども、私は「命の選別」だの「生まれない権利」だのといった「見当違いの理由」が振り回される未来ではなく、「青臭い正論」がなお人心を打ち、人を動かし得る未来
を生きていきたい。

それだけが「人間の終わり」に抗し続ける「人間の尊厳」の論拠なのだと思います。

最後になりますが、この件についてのご意見・反論等を戴きたく、拙サイト掲示板内にて『掲示板』を設置いたしました。
皆様からの忌憚のないご意見を心よりお待ち申し上げます。

ぜひよろしくお願い致します。

[TOPへ]
[カスタマイズ]




©フォレストページ