■対話するということ


aさか〜あとがきにかえて〜



「『専門バカ』のインテリはたしかにいる。しかし『専門』さえもたない『インテリ』の知性とは一体何だろう。むしろ庶民バカの方がはるかにまさること数等である」(丸山眞男『自己内対話』みすず書房)

なんぞと一九七〇年代のマルヤマは似非知識人の類を糾問しているわけだが、四十年も昔の声によって、いまごろ指弾されているのは、他ならぬ我々かもしれない。
ただ、そう問い詰められても、「インテリ」かどうかはともかく、確たる「専門」を持たぬ人間であることに間違いはないので、反証のしようもなければ、改めて襟を正すこともできない。

「庶民バカ」にも劣るといわれれば、そのような気もする。だけど「庶民バカ」あるいは「庶民バカ」の知性って一体何なの、という疑問も脳裡の片隅で明滅しないではない。

私は敢えて、確固たる専門を持たず、立場もあまりはっきりとは明示せずに、「博く、浅く、概ねニュートラル」をモットーに、世に渦巻く情報、学知、構想、意思、理念、思想、価値観、信仰などなどの交通整理を務めようと心に決めたのだ。

断っておくが、私は思想家ではない。もちろん学者でもない。これらに比べれば「タレント」の方が遥かに近いから、今後はそう看倣して欲しい。タジリタカヤという一種の「タレント」「芸人」なのだと思ってもらって大過ない。

これは別に開き直りではなく、本当にそうなのだ。有り体にいえば、私にはこれしかできないのだ。「すべての構想は存在しない」と説く中観派の教えに従う以上、誠実な知性が世間と関わるにはこのようなあり方しかない。

私の議論は多くの場合、帰謬論証に則っている。帰謬論証とは、自らの立場は明らかにせず、専ら相手の論理を逆手に取って、内部矛盾に追い込み破綻させてしまう中観派得意の論法である。「相手の神によって、相手を撃つ」私好みのやり方でもある。あらゆる原理的な立場に対して、この論争術は適応できる。対手が硬直的であればあるほど、破壊力を示す。

こうして、すべての構想が「仮設(仮のもの)」としてしか存在しないという認識に達することによって開かれるのは、いわば究極のプラグマティズムであり、底の底のリアリズムである。相対主義の矛盾のない帰結とは、徹底したリアリズムしかない。「諸法実相」というやつだ。

考えてみれば仏教者とはあらゆる意味で曖昧で相対的な存在だ。決して肯定されない排除項である。だからこそ、中観派の浮世における生き方としては実に相応しいし、それ故私好みなのである。

大澤真司氏は、私とはあらゆる意味で違っている。改めて指摘するまでもなく、大澤氏の学識は高度に専門的である。しかも大澤氏の思考はオリジナリティによって穿たれている。彼は思想の原理を信じているし、「神」をも見据えている。

同じ世界の住人ではない。けれど、異なった世界のカウンターパートではあるかもしれない。

というわけで(どういうわけだ)、ご愛読、感謝いたします。

これからもどうか、よろしく

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