■エイリアンだってこと。


あさ〜まえがきにかえて〜

ホントいうと、政治や社会などについて考えること、語ることが、好きなわけじゃない。そういう「この世」的なことどもは実はどうだっていいんだ。

そう胸の底で感じている。

それにいくら考えたって、いくら語ったって世のなかが「良く」なるわけじゃない。残酷な事件も、理不尽な差別も、悲惨な戦争も決して止むことなどない。
モグラ叩きだ。
ひとつ叩けば、別のところからまた悪相のモグラが顔を出す。


それらは人が人である限り、人間が無明を抱える限り、地を掃ったりはしない。

この認識は、生半の諦観やルサンチマンに基づくニヒリズムなどでは断じてない。


だったら何故に考え、何故に語るのか。


答え。


眼前に「問題」があるからだ。


目の前で川に鎮まって、溺れつつある子どもを助けるのと同じ。
一人の命を救ったって、全世界の水死者数の統計が変わるわけじゃない。

そんなことはわかってる。わかりきっている。

だけど、俺は俺の目の前でもがき苦しむ「君」を救わずにはいられない。
俺が手を拱いているあいだに、「君」が死んじまうのが絶対に許せないんだ。

そういうふうに、俺たちは怒り、嘆き、快哉を叫び、また憤ってきた。

「この世」のことなんてどうでもいい。所詮、すべて他人事です。

だけど、万般、他人事であることこそが肝要なんだと思う。

「優れた社会学者は勝れてストレンジャー的でなければならない」って科白を聞いたことがある。事によると、俺が酔いどれた頭で捏造したのかもしれない。だが、大事なのはストレンジャー、よそ者になるってことだ。

エイリアンであること。他人事だってこと。どうだっていいこと。

にも拘わらず、ある寒い朝、陽の目もみずに死産した胎児のために祈ること。

これが「リベラリズム」ってヤツの本義ではあるまいか。


また別の話。

お釈迦さまは縁起の理法を悟ったとき、その内容を人に伝道することを躊躇った。

「私の悟った法(ダルマ)は微妙にして難解である。これを『この世』の人々が理解できるとは到底思えない」。お節介な梵天が三度懇願して、彼はやっと思い腰を上げたと経典は記している。

仏教というのは、「この世」に教えを広めることに大した意味を見出さなかったエイリアンを開祖とする、思えば変な「宗教」なのである。


社会学者も仏教者もエイリアンなのだ。いやもともとエイリアンだったのが、社会学や仏教やらに行きついたのかもしれない。


「暗いニュース」について語りながら、いつも脳の片隅で「月の裏を夢見てる」。


数多いる社会学を志す者のなかで大澤真司氏は、そんな感覚を共有できる数少ない存在だ。

対話はいまも続いている。




当サイトのコンセプトは、二十世紀の卓美を飾る最高の楽曲、キリンジの「エイリアンズ」にインスパイアされた。

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